第百六話 薔薇と氷
湯気にけぶる浴室で、湯船に身を沈めながらオフィーリアは安らぎの息を吐く。背後に控えるベルナの指が髪を梳くたび、薔薇の香りを含んだ石鹸の泡が、一日の疲れと共に肌を流れ落ちていく。
腰まで届く長い髪を洗うベルナの手付きは慣れたもので、その心地良さにオフィーリアは目を閉じた。
「今日は随分とお忙しい日でしたね。お疲れでしょう?」
泡を洗い流しながらベルナがそう言い、オフィーリアは小さく頷く。
交歓会、観劇、そのあとは喫茶店へ場所を移してテオバルトと二人、穏やかな時間を過ごした。
湯の温もりに包まれながら、そのひとつひとつが鮮やかに思い返される。緊張を胸に臨んだ交歓会も、華やかな舞台の熱気も、甘い焼き菓子と共に語らうひとときも、今は薔薇の香りに溶けていく。
「疲れたけど……とても充実した一日だったわ」
朝から日暮れまで、こんなに長時間も外出したのは初めてだった。
交歓会での振る舞いは完璧ではなかったにしても、初めての場であることを考えれば、上出来だったはずだ。
テオバルトが掛けてくれた言葉はどれも大袈裟で、少し気恥ずかしくもあったけれど、その真剣な眼差しとともに受け取った賞賛は、確かな自信となって残っている。
「私はお側にいられませんでしたけれど、交歓会が有意義なお時間になったようで何よりです」
交歓会では、付き人はすべて別室で待機することになっていた。そこでも付き人同士でそれなりに交流があったようで、ベルナの様子を見る限り、悪くない時間であったらしい。
「そうね。執政閣下もお噂通り、とても誠実そうなお方だわ」
オフィーリアは湯の中で指先を泳がせながら答える。湯面に浮かぶ泡を指先で突くと、小さく弾けて薔薇の香りが広がった。
「それに思いのほか、いろいろな方が話しかけてくださったの。きっとテオバルト様との繋がりが欲しいのね」
「……誰がそんなことを仰ったんですか?」
髪を梳くベルナの手が止まる。いつもより低い声に、らしからぬ怒りが滲んでいる。
「違うわ。私がそう思っただけ」
言葉を交わした相手の顔を一人一人思い返しながら、オフィーリアは即座に答えた。
婚約者にすぎない自分まで招いたことから、ヴェルナーに平民への偏見はないのだろうとは思っていた。彼がテオバルトの知り合いだというのも関係しているかもしれないが、主催たる執政が礼を尽くしてくれたからこそ、周囲の態度も変わった。
ただそれは、外務卿の婚約者を粗末に扱ったら損をする、という合理的な判断がなされただけ。落ち着いて考えてみれば、あからさまなほど明確な変化だった。
背後で、ベルナが小さく息を吐く気配がした。何か言いたげだったが、すぐに髪を梳く手が動き出す。
その沈黙に、オフィーリアは穏やかに言葉を継いだ。
「ねぇベルナ。そのあとの劇も、素晴らしかったわね」
「……そうですね」
テオバルトとオフィーリアが案内されたのは、二階の貴賓席だった。すべらかな天鵞絨張りの座椅子に、彫り込みの美しい円卓。半個室のようになっており、入り口の帳を下ろすと外の喧騒からも切り離されたようになる空間は、舞台に集中するには十分すぎた。
そして支配人は、当然のようにベルナにも一等席を用意してくれた。
「私ね、最後、二人が想いを伝え合うところで思わず泣きそうになってしまったの」
「……あの場面は本当に、私も胸が熱くなりました。やはり何度観ても良いものですね」
ベルナの声が徐々に明るくなっていくのがわかって、オフィーリアは思わず笑みをこぼす。
華やかな衣装に、朗々と響く声。初めての観劇はすべてが新鮮で、圧倒的だった。
そして観劇のあとテオバルトと共に立ち寄ったのは、以前にも足を運んだあの喫茶店。紅茶とケーキを楽しみながら劇の感想を、そして馬車で聞いた話の続きを、テオバルトは静かに語ってくれた。兄達との思い出、領地での暮らし、今は亡きアレクシア夫人のこと。
最近のテオバルトは自分のことを惜しみなく話してくれる。まだ見ぬ彼の過去の姿が少しずつ形になっていくようで、それが嬉しい。
窓から差し込む午後の光の中で、彼の声に耳を傾けながら過ごした時間は、交歓会での緊張とも劇場での興奮とも違う、穏やかな幸福に満ちていた。
——けれど、自分の話をすることはできなかった。思い出せる幼い日の景色は冷たくて、テオバルトの優しい記憶に混ぜることは躊躇われた。生きてきた世界が違うだなんてことは、わかっていたはずなのに。
「奥様、お湯加減はいかがでしょう? もう少しゆっくりなさいますか?」
「もう上がるわ。まだやることが残っているの」
ベルナの声に、オフィーリアははっと我に返る。今日は朝から出掛けていたせいで、家政も手付かずだ。
頭の中でやるべきことを並べていると、湯上がりの支度を整えながらベルナがぴしゃりと言う。
「夜更かしはいけません。本日の家政はクラウス様がすべて対応してくださいました。奥様はどうかごゆっくりお休みください。明日でも間に合うことを今夜やる必要はございません」
過去に無理を押して倒れたことがあってから、ベルナはこうしたことに厳しい。あっという間に寝支度を整えられると自室に押し込まれてしまう。
オフィーリアは机の上に置かれたカードを手に取った。几帳面な筆跡で綴られているのは、今日一日を共に過ごせた喜びと、オフィーリアへの労いの言葉。筆談の必要がなくなってからもこうして贈られてくるカードは、テオバルトからの愛の証のようだった。
普段ならきちんと箱に入れて保管しておくが、何故だか今はまだ手放したくなくて、カードを持ったままオフィーリアは寝台に横たわる。
——愛されている。それは疑いようもなく、確かなことだった。




