第百四話 心を開く午後に、
馬車の窓から差し込む午後の陽光が、座席に柔らかな影を落としていた。
交歓会を終えた帰路の車内は静かで、外からは馬蹄の規則正しい音と、車輪が石畳を転がる響きが続く。
オフィーリアは流れる街並みから、向かいに座るテオバルトへと視線を移した。穏やかな琥珀色の眼差しに迎えられると、自然に口元が綻ぶ。
「……今日のテオバルト様は、とても威厳があって、普段とは少し違って見えました」
「そうですか?」
「外務卿としてのお姿を拝見するのは初めてでしたから……余計にそう思ったのかもしれません」
侯爵は確かに高位の貴族ではあるけれど、あくまでも貴族社会の一員。序列の中で相対的に上下が決まる。けれど外務卿は国の政務を担う最高位のひとつで、外交においては大公の代理にもなる。
知識としては理解していたつもりだった。しかし交歓会で人々がテオバルトに向ける態度の違いを目の当たりにしたとき、その重責を本当に理解できているのか、新たな不安が胸に芽生えたこともまた事実だった。
「私にも威厳があればいいのですけど……難しいですね」
出自を揶揄する言葉は、いつだって彼の選択をも貶めていく。
彼のような威厳が自分にもあれば、ああしたことを言われずに済んだのかもしれない。
小さく息をついて手元に視線を落としたとき、向かいから穏やかな声が聞こえてきた。
「相手を制し、黙らせるばかりが威厳ではありません。人々の視線を集めたり、その言葉に自然と耳を傾けようとするような力もまた、威厳と呼べると私は思います」
「……そんな考え方もあるんですね」
「焦らなくていいのです。私の髪が白くなるにも、まだまだ時間がありますから」
当たり前のようにさらりと続けられた言葉に、オフィーリアは頬の奥に熱がこもるのを覚えた。今朝、不安と甘えに負けて口にした問いかけが脳裏に浮かび、胸の奥がむず痒くなる。
けれどその記憶さえ、彼の穏やかな声音に包まれると安堵に変わっていく。
真剣な言葉に重さを込めながらも、最後には冗談めかして心を和らげてくれる。このひとのそういうところが好きだと、思わずにはいられない。
「短い時間でしたが、外務卿という役職の重責を少しは理解できた気がします」
オフィーリアが小さく笑みを洩らすと、テオバルトもわずかに口元を緩め、軽やかな調子で続けた。
「そう感じていただけたなら幸いです。しかしあのような場は、外務卿としての数少ない華やかな場ですね。外務卿などと大仰に呼ばれていますが、実際は書類に埋もれながらの地味な調整ばかりです」
「まあ。そんなことを仰ったら、任命された大公閣下がお気を悪くされるのではありませんか」
冗談混じりの言葉にオフィーリアも同じように返せば、テオバルトはすぐに応じる。
「彼なら笑って聞き流しますよ。昔から、懐の広い方でしたから」
大公ハインリヒとテオバルトは旧知の仲だ。そこに強い信頼関係があることは、彼らの姿を見ていればわかる。
普段は君主と臣下として適切な距離を保っているけれど、その関係性もまた友情の一つの形なのだろう。
オフィーリアは思い切って、以前から気になっていたことを訊いてみた。
「お二人は、どのようにお知り合いになったのですか?」
「初めてお会いしたのは、閣下がまだ小公子だった頃、大公妃殿下と共に我が家の領地を訪れた折です。しばらく屋敷に滞在することになり、その時に色々と言葉を交わす機会がありました」
大公家の嫡子とはいえ、子供である小公子が大人の会話に混じることは難しい。滞在中の時間を共にするのは必然的にテオバルトたち三兄弟になるだろうことは、オフィーリアにも想像がついた。
気品と華やかさを併せ持つ見目麗しい少年が四人、並んでいる光景はさぞ壮観だったことだろう。その場に居合わせたら、きっと息を呑んで見つめてしまったに違いない。
「普段は私の自由にさせてくれていた父が、あの時ばかりは小公子の相手をきちんと務めろと言ってきたのが印象的で、よく覚えています」
「小公子と親しくなっておけば、将来のためになると……?」
長男は跡継ぎ、次男はその次席。三男は自由である代わりに自分の力で身を立てる必要があると、以前言っていたことを思い出す。
オフィーリアの問いにテオバルトは首肯で応えた。
「所謂、友人候補というものですね。そういう役目は兄に任せるつもりでした。しかし、思いのほか小公子のほうから私に話しかけてきて……結局、応じざるを得なかったのです」
自分へ矛先が向いたことに困惑もあったと、そう言いながらも目元にはわずかな笑みが宿っている。
ほんの興味からの問いかけだったのに、思いのほか丁寧に答えてもらえることに、オフィーリアは驚きと喜びを隠せない。これまで二人で共に過ごす時間はそれなりにあったものの、こうした話を聞く機会はあまりなかった。
「友人候補……」
聞き慣れない言葉に、オフィーリアはわずかに首を傾げながらも思考を巡らせる。少なくともそれがただの遊び仲間を示す言葉ではないことくらいは察しはついた。
大公にとって友人とは、孤独を和らげる存在であり、対等に話せる存在であり、やがて国を導く上で頼れる相手でなければならない。そのために家格や家柄、将来性などを吟味して慎重に選ばれる。
テオバルトの説明を聞きながら、自然と思い浮かんだのはエリオンのことだった。そういえば彼にもそうした〝友人〟がいた。エリオンが会いに来てくれるたび、その後ろで、いつもどこか眉を顰めてこちらを見ていた。今になって思えば、王子が平民の歌姫と親しくしているというのは、あまり好ましいことではなかったのだろう。
過去の記憶に胸がちくりと痛んだが、それを表情に出すことはない。
「テオバルト様の子供時代のお話、もっと聞きたいです」
琥珀色の双眸が一瞬、こちらを見つめた。自分の心の機微なんて全部見透かされているのかもしれない。
けれど促すように向けられた声に、テオバルトは一瞬だけ考えるような素振りを見せた。顎に指先を添え、言葉を探すように視線を脇へと流す。そのわずかな間の後、静かに口を開いた。




