第百三話 蕾は静かに花開く。
テオバルトから果実水入りのグラスを受け取り、壁際に移動する。
グラスに口を付ければ、乾いた喉が爽やかな柑橘の香りとともに潤っていく感覚が心地良い。
「慣れない場ですから、気疲れもあるでしょう」
「ありがとうございます……美味しいです」
人の輪から外れたその場所はざわめきからもわずかに遠去かり、胸の奥まで一息吸い込める余裕があった。
オフィーリアはふと、隣に立つテオバルトへ視線を向けた。彼もまたグラスを傾けながら、周囲へさりげなく視線を巡らせている。
その表情は穏やかで普段と変わらないはずなのに、雰囲気は屋敷で見る姿とも、夜会に立つ姿とも違う。普段より口数が少なく、聞き役であるように見えて、常に会話の主導権を握っている。その在り方を、改めて素敵だと思った。
「……どうかされましたか?」
ふとこちらに視線を向けたテオバルトの言葉に、オフィーリアは「いえ」と、小さく首を振る。公の場で、そんな個人的な感情を露わにしてはいけないと思った。
「私にも……思いのほか、色々な話題が向けられるので、少し、意外に思いました」
女性が語っても問題ないとされる話題は、芸術や服飾や慈善活動といったもの。それは例え外務卿夫人であっても変わらないと思っていた。だから東方交易について意見を求められたときは、あえて孤児院への支援に絡めて応じた。
しかしそれ以降は経済や交易といった、男性の領分とされる議題までこちらに振られる。テオバルトが遮らないのであればとオフィーリアは出来る限り答えたが、胸の中にはわずかな困惑が燻っている。
「執政閣下があなたに敬意を示したこと。そして、あなたが述べた意見が適切だったこと。そうしたものを見て、周囲の評価も変わったのです。閣下が侯爵家の支援活動に触れたことも、良い効果を生みました」
その言葉に、オフィーリアは思わず目を瞬かせた。確かに執政とは、挨拶だけのつもりが思いのほか長く話した。
侯爵家の支援活動に触れ、公的な支援もそうあるべきだと述べた彼の言葉に、誰もが耳を傾けていたはずだ。
「評価……」
外務卿の婚約者として初めて臨んだこの場で、自分の振る舞いが認められたなら、それは十分すぎる手応えだった。
「あなたの意見はどれも的確でしたよ。私が口を挟む必要もないくらいでした」
「でも、私のような者が、偉そうなことを言ってしまったのではと……」
先程のやりとりを思い出しながら、オフィーリアは目を伏せた。内容としては問題なかったと思う。しかし実務に関わったこともないのに、知識だけで物を語ることに、少しの後ろめたさも感じる。
「問題ありません。その分野に関心を持ち、自分の意見をはっきり示せる——その姿勢こそが大切なのです。こうした場では特に」
テオバルトの声が落ち着いて胸に響く。
「失言を恐れる必要はありません。——お忘れですか? この場で一番偉いのは、外務卿たる私ですよ」
彼にしては珍しい冗談混じりの言葉に、オフィーリアは思わず目を瞬き、それから抑えきれずに小さく笑ってしまう。
でも、確かにその通りだ。彼がそばにいる限り、自分は守られている。その確信が胸に根を下ろすと、先程まで肩に重くのしかかっていた何かが消えていく。自然と背筋が伸びるのを感じながら、オフィーリアは再び会場の中心へ目を向けた。
テオバルトと共に人の輪へ戻ると、早速一人の男がにこやかに話しかけてくる。一礼しながら丁寧に告げられたその名前にはもちろん覚えがある。小綺麗な服装に人の良い笑みは、商人らしい計算高さを感じさせず、親しみやすいものだった。
男は地方でいくつかの事業を営んでいると述べ、これから公都ではじめる新しい事業を計画しているのだと語った。
「こうして我ら平民の暮らしに目を向けてくださる執政閣下のお考えには、深く感銘を受けております。実は私どもも新たな事業として、孤児院や救貧院への支援を始めたいと考えているのです。もし侯爵家のお取り組みに加わることができれば、支援の輪をさらに広げていけるのではないでしょうか」
「規模の拡大を目的としているわけではありません。そのようなお考えをお持ちなら、我々ではなく執政に申し出るのが最も適切でしょう」
テオバルトの明確な返答に、男は引き下がらなかった。
「もちろん承知しております。ただ、これから取り組みを始められる公都よりも、既に基盤の整っている閣下方へ力を貸すほうが、今まさに辛い境遇にある子供たちにとっても確かな助けになるはずです。——ご婚約者様はどのようにお考えでしょうか?」
すかさずこちらへ向けられる視線を、オフィーリアは静かに受け止める。
「……子供達にとって最も大切なのは、支援が途絶えることなく、安心して暮らせることです。私共は、規模よりも継続性を重視しております。まずは、今ある取り組みをより確かなものにしていくことを優先したいと思います」
男の提案は魅力的だった。目の前にいる子供たちへすぐに支援の手を伸ばせるなら、それは願ってもいないこと。けれどこの場で、そうした個人的な考えを言葉にすることはできない。
そして男が何かを言うより先に、テオバルトが言葉を続けた。
「我々と共にでなくとも、支援に取り組もうとする方が増えることは子供達にとっても喜ばしいことでしょう。その志が身を結ぶことを願っております」
男は一瞬、悔しそうな表情を見せた。何らかの足掛りを期待してこの場に臨んでいたのであれば、望んだ答えではなかったに違いない。けれど彼は商人らしい柔軟さで、すぐに別の角度から話を続けた。
「ご両名のお考え、胸に留めさせていただきます。私どもは商いを営む身ゆえ、物資の融通などでお役に立てることもあるかと存じます。どうかその時は思い出していただければ幸いです」
丁寧に一礼して立ち去る間際、男は最後にこちらへ視線を向けた。その眼差しには、先程までとは違う何かが宿っているように見えた。
妙に印象に残るその視線を背に受けながら、オフィーリアは小さく息をついた。




