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第百二話 翳らぬ陽は寄り添いて、

 ふと、伯爵が小さく咳払いをした。商会主と何か目配せを交わし合う。二人の間に流れる無言のやり取りは、長年の付き合いか、あるいは事前の打ち合わせがあったことを窺わせた。

 そして商会主は改めてテオバルトに向き直る。


「なるほど、実に含蓄のあるご意見ですな。——ご婚約者様も東方交易にご関心をお持ちとのこと、閣下はこの先の見通しをどのようにお考えでしょう?」


 社交的な笑みはそのままに、商会主の言葉にはどこか探るような含みもあった。これが本題——そう気付いた時、浮ついていた心が冷静さを取り戻す。

 先程意見を述べたのは、やはり軽率だったのかもしれない。あくまで私見だと言い添えたものの、もしそれがテオバルトの迷惑になってしまったら——そう思うと、急に胃のあたりがきゅっと痛む。

 問いかけに、テオバルトは視線を逸らさなかった。短く沈黙を置いたのち、落ち着いた声が返る。


「交易の方向性については、関係各省及び大公閣下の御裁可に委ねられる事項です。私の職掌はあくまでも必要に応じて外交の調整を担うこと。外務卿として申し上げられることは、現時点ではございません」


 言葉に続いた静寂が、周囲の喧噪とは別の質を持って広がる。商人も伯爵もすぐに応えなかった。言葉を選んでいるというより、何かを計算しているように見えた。

 とはいえテオバルトが明確に一線を引いた以上、さらなる追求は悪手になるはずだ。


「本日は貴重なお時間を賜り、誠にありがとうございました。今後、微力ながらお力添えできることがあれば、どうぞご遠慮なくお申し付けください。宝飾品なども扱っておりますので……ご婚礼の折などに、是非ご覧いただければ幸いです」


 商会主の笑みは柔らかくも、その目には依然として計算の色が窺えた。次の機会を逃すまいとする姿勢は、公都でも有数の大商会を築いてきた者の強かさを思わせた。

 続けて、その隣で伯爵も腰を折る。

 

「改めて、ご婚約者様とこうしてお引き合わせいただけたこと、光栄に存じます。お二方の今後ますますのご健勝とご活躍を、心よりお祈り申し上げます。またお目にかかれることを楽しみにしております」


 適切に引き際を見極め、言葉を選ぶ振る舞いは自然なものだった。

 丁寧な礼を残し、商会主と伯爵はやや名残惜しげな表情を見せながらも、その場を後にした。


 今度はその背中を見送る余裕もなく、オフィーリアはゆるりと扇を閉じた。

 婚約者という立場であっても、発した一言が外務卿の意向として扱われたり、或いは、望まぬ形で広まることもある。そうしたことは知識として学んではいたものの、肌で実感するのはこれが初めてだった。


「テオバルト様。私……余計なことを言ってしまったでしょうか」

「いいえ。言葉選びは申し分ありませんでした。私の立場まできちんと考えてくださったのですね」

 

 楽団の奏でる音楽に紛れるよう、お互いにだけ聞こえる声量での会話。それでもテオバルトの声が穏やかに耳朶を撫でる。

 その響きに、身体の奥で張り詰めていたものが静かに解けていくのを感じた。


「……でも、まだ少し、不安です。ご迷惑にならないかって」

「いいえ。あなたが場をどう捉えて、どう振る舞うか——私の想像以上でした。誇らしかったですよ」


 誇らしかった。

 その一言で、不安も迷いも霧のように消えていく。さっきまで迷惑をかけたのではと怯えていたのに。落差の大きさに、オフィーリアは自分が案外単純だと気付いた。

 口元がわずかに緩むのを自覚しながら、そっと視線を上げる。琥珀色の眼差しがまっすぐそこにあった。


「ありがとうございます。そう言っていただけるなら、もう少し自信を持てそうです」


 テオバルトが穏やかな仕草で差し出した腕を取ると、意識が自然と切り替わるのを感じた。

 幸いにも話し相手には困らなかった。誰もがテオバルトに話しかける機会を狙っていることは、オフィーリアにもわかる。目下の者から話しかけることの許されない夜会や舞踏会と違い、この場であれば、礼儀さえ尽くせば失礼にはならないのだ。

 とはいえ、応じるのは基本的にテオバルトだ。先ほどのように意見を求められることは多くはないと思っていたけれど、三人目が丁寧な礼とともに立ち去る背中を見送りながら、オフィーリアは思わず首を傾げそうになった。

 例えば北方交易路について。関税の見直しについて。今の季節に取引が増える品目について。これまではテオバルトにばかり向けられていた質問のいくつかが、こちらにも投げかけられるようになってきた。

 理由はわからないまま、そうしたやり取りが続くことを不思議に思いながら、受け答えの言葉選びにはもちろん気を配ったが、ほんの少し疲れを覚え始めた、その時。


「リア。少し休憩しましょうか」


 穏やかな声とともに、グラスが差し出される。


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