十話 夜の底に沈む
暗闇の奥で、何かが崩れ落ちる音が響いた。
影が近づくたびに喉が痺れ、指先が凍りつく。冷たい風が頬を掠めた瞬間、あの夜の影が背後にまで迫ってくる。
——飛び起きたオフィーリアは息を呑み、目を見開いた。
(また、あの、夢……)
震える手を胸元で握り込み、荒い呼吸を無理に整えようとする。耳の奥で、あの夜の笑い声がいつまでも響いている気がした。
今こうして穏やかな生活を送っていても、それを嘲笑うかのように、悪夢は夜毎に忍び寄ってくる。
彷徨う視線が、侍女の控え室へ向かう。呼び出しにすぐ応えられるよう、誰かしら侍女がそこで寝泊まりしているはずだ。
(こんなことで……呼んでも、いいのかしら)
まだ空に淡い闇が残る早朝、オフィーリアの胸にはためらいが渦巻いていた。けれど一人で眠りに戻るよりも、人の声を確かめたい気持ちが勝った。
小さく息を整え、震える手で控え室の扉を叩く。
少しして、そっと開いた扉から、ベルナが顔を出す。
「お嬢様、どうされました? ——まぁ、お顔が真っ青です!」
ベルナの顔に明らかな動揺が浮かんでいた。彼女もまた夜着のままで、髪も整えられていない。それでも心配そうにオフィーリアの顔を覗き込む。
「どこかお身体の具合が悪いのですか? お医者様を呼びましょうか? それとも——」
思いのほかベルナの慌てた態度に、呼び出しておきながらオフィーリアは戸惑いに首を横に振る。
しかしそれでは説明にならないことに気付き、咄嗟に、テーブルに置かれたカードとペンを手に取った。
『悪夢を見てしまいました』
『そんなことで起こしてごめんなさい』
そう書いたカードを見せた時、ようやくベルナはわずかに肩の力を抜いた。
穏やかな笑みが、長い冬を破る春の日差しのように差し込んだ。
「そうでしたか……ご不安なときに頼っていただけて、嬉しいです。申し訳ないなんて思わず、些細なことでも、いつでもお呼びください」
ベルナの声は優しかった。
オフィーリアはカードを握りしめたまま、小さく頷きを返す。
胸の奥に溜まっていたものが、ほんの少し軽くなった気がしていた。
「お加減はもう大丈夫ですか? まずは、お飲み物を持ちしますね」
ベルナはオフィーリアを椅子に導き、肩にストールをかけてから、足早に控え室へ戻っていく。
まもなく戻ってきた時には、小さな盆には湯気の立つカップと少しの菓子が乗せられている。
「ハーブティーです。きっとご気分が落ち着きます」
透明感のある琥珀色の液体が朝の薄明かりを受けて、ほのかに輝いて見えた。カップを手に取ると、じわりと、指先の強張りが解けていく。
一口飲むと、果物を思わせる甘い香りが口の中に広がる。何のハーブかまではわからないが、爽やかな風味と優しい甘味は確かに波立つ心を穏やかにしてくれそうだった。
時間をかけてそれを飲み終えた頃、ベルナがそっと口を開いた。
「お嬢様、もしよろしければ、サロンで朝食を召し上がりませんか? あそこなら陽当たりも良いですし、きっと気分も和らぐかと思います」
その提案に、オフィーリアは首肯する。
「では、お支度をいたしましょうね」
ベルナは手際良くオフィーリアの身支度を整えていった。髪は丁寧に梳かれ、波を描くように背中に流れる。
選ばれたのは春らしい控えめな薄桃色のドレス。胸元にはリボンが並び、繊細なレースが幾重にも重ねられている。
「お嬢様は何色でもお似合いになりますね」
明るく微笑むベルナに、オフィーリアは意を決して、すぐそばに置かれたペンを手に取る。
『ありがとうございます』
その声を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなり、オフィーリアは手にしたペンを握り締めた。言葉を口にできなくても、書き記せば想いを伝えられる。そう気づいたとき、胸の重みがわずかにほどけていく。
まだ不安は残っていた。それでも、今はこの屋敷と、ここにいる人々を少しだけ信じてみようと思えた。




