3.言ってみたいセリフ その3:通りすがりの剣士
庭側の明り障子は開け放たれていた。廊下を静かに歩んで、紘子が部屋前の廊下に膝をつく。落ち着いた色の外出着から、水浅葱の地色になでしこの小袖に着替えている。
「国東さま、この家の主人にございます」
さとの口上に、頭を下げると、紘子が部屋に入り、さとの準備した座布団をそっとわきによけて正座、両手をついて頭をさげる。
「牧野家正室、紘子にございます。
お助けいただき、まことにありがたく」
陶酔する友加、なんという快感~。辛抱たまらん。
慌てて自分も座布団をはずし、膝前に握った両手をつく。ビミョーに頭を相手より低めに調節。
「奥方、どうぞお手をあげてくだされ。わたしは通りすがりの剣士、奥方に頭をさげていただくような身分にはありませぬ」
「いえ、命の恩がございます」
「かよわきおなごをお助けするは、剣士の誉れ、名誉をいただいたのはわたしのほうです」
「ありがたき仰せです」
「ささ、もう手をおあげくだされ、さと殿、奥方に座布団を、の、頼む」
さとに座布団を整えられ、座りなおした紘子が、再び頭をさげそうになるのを押しとどめて、友加は話しかけてみた。
「紘子さま、ですね、京から輿入れなされたか」
「はい、詳しくは少々はばかりますが」
「さようにござろう」
「お察しいただき、ありがたくぞんじます」
「わたしは京の女です」
「はい」
紘子の目に涙が溜まりそうになる。
「ささ、さと殿のお手前を」
「はい」
紘子が茶に口をつけ、気持ちを落ち着けるのを待つ。
さとが友加に話しかける。
「国東さま、半時ほどで先ほどの役人が参ることと思います。
それで、国東さまのご身分についてですが」
「ああ、そうだね、どうしよう」
「あるじのご実家は、京の天野家。三条家の縁につながります」
「なんと」
「はい。詳しいことは追々」
「わたしは天野家の縁者ということだね」
「それでよろしいでしょうか」
「そうだね、小さな道場の娘が産んだ非嫡出子、えーっと、側女の子ということでいいかな」
「おそれいります」
「いやいや、なんとなく口を濁して、あちらがよいように取ってくれるのを期待しよう。
それより天野家の方は」
「そちらは、こちらで通じておきます」
「さと殿にお任せいたす、細かい詰めができるまでは曖昧に、でよろしいか」
「よしなに、どうぞよしなにおねがいいたします」
「奥様に悪いようにならぬよう、考えてまいるゆえ」
紘子が再び涙を湛え、手をつきそうになったので、友加がちょっと焦った。
「奥方、厚かましきことはお許しいただきたい。しばらくこちらの寮で寝起きさせていただけるだろうか。わたしは今のところ行く先がないのだ」
「国東さま、それはこちらから先にお願いすべきことでした」
こうして友加は、当分の間、驚くほど簡単に根津の寮の住人になった。
もちろん、友加が思うほど事態は単純ではありません。ただいま絶賛罠に落とされ中デス
衣服と色
この時代の衣服は、男女貴賤を問わず、小袖のようです。小袖は、もともと大袖と呼ばれる衣装の下着だったそうです。
この後、小袖の上に羽織って着用されていた、打掛が発展して、現代の着物になっていくようです。現代の着物に“おはしょり”があるのは、そう言う理由のようです。小袖は、下着と同じように、背丈に合わせて“対丈”で仕立てますから。
第一次世界大戦前後、ヨーロッパの宮廷に着物姿で出席した日本大使館員の夫人が、どなたのドレスも裾を引いていたので、合わせるためにおはしょりを下ろしてワルツを踊ったという実話を読んだことがあります。
色の名前は、ありがたくもお読みくださる皆さまに江戸時代の雰囲気を楽しんでもらおうと思い、色の古い名前を探してみました
参照:日本の伝統色 THE TRADITIONAL COLORS OF JAPAN
ピエ・ブックス