28.準備
友加は小袖を着て歩く練習から始めていた。幾絵の小袖を借り、着付けてもらった。幾絵はさとに教えを受けて、おすべらかしという髪型を作るためのつけ毛のつけ方、笄髷に作り直すやり方を習得して、友加の髪を結った。友加が髪を長くのばしていたのはラッキーだった。
筒袖と袴の練習着には慣れているが、小袖となれば、歩くのにも技が求められる。最初はまっすぐ歩くところからだった。更に髪をおすべらかしにすると、小袖と油で固めた髪の毛の関係性から首を大きく動かすのが難しい。後ろを見ようとしたら、体ごと動かさなくてはうまくいかない。
紘子の歩く、座る、立つ、というさまざまな動作を真似ては、幾絵と虎蔵からダメが入る。特に駕篭に乗り込む、駕篭から降り立つという動作は念を入れて練習を重ねた。
紘子がうたたねしている時間を見計らってはさとを呼び、意見を聞いて鳩首談合。駕篭の乗り降りを考慮して、笄髷に結って髪のあしらいを楽にし、さとがしゃがんで体で友加を隠すことになった。脱いだ草履を預かる名目で、虎蔵もカバーにはいる。
駕篭をどう調達するかも問題になった。短距離とはいえ葵紋を受けた紘子の移動に使う名目なのだから辻駕篭を頼むわけにはいかない。
結局田中屋にそれなりの格の駕篭と担ぎ手を準備してもらおうということになった。
友加と虎蔵の早朝トレーニングは完全に変更された。
友加は、横幅一メートル、高さ一メートル二十センチほどで、左右が内側へ軽く湾曲した大きな盾を持たされた。
持ち方から虎蔵に教えられた。片膝を突いた姿勢で盾の下縁を地面に着け、両手でしっかりと持つ。
最初は虎蔵が木刀で打ちかかるところを、その力を逸らしてまともに受けないところから練習は始まった。盾が丸みを帯びていることを利用して、入ってきた力を外へと逃がす。あらゆる高さ、あらゆる角度から、薙ぎ、突き、斬りかかる木刀を、最初は見ながら、次第に盾の中に身を隠して打たれた感触でそらせることができるまで、防ぎ続ける。結局、盾に体ごとぶつかってこられても動かないで防ぎきれるように、肩を入れて体重で防ぐところまで猛特訓になった。
木盾に偽装しているが、実はポリカーボネイト、刃物でどうこうできるものではなかった。
その練習をさとがひっそりと見ている。
戸外の練習は、単にさとに見せ、囮を引き受けたことが本気なのだと連絡させるためのものにすぎない。
本当の練習は、さとと紘子が本院に行っている間に室内で行われる。
ヘルメットをかぶり、紺の特殊作業着の上に防刃ベストを着て、ベルトにスタンバトン、滑り止め付きの皮手袋、安全靴、それで両手に盾の持ち手を握らされて、汗だくで片膝つき姿勢を保っている。
「トラさん、これ、なんですか」
「完全防衛フォーメーションです」
「フォーメーションって、ナントカレンジャーみたいなんですけど」
「ですよね。はい、攻撃しますよ」
使われている大盾は、シースルー、このためだけに造られた特注品だ。
機動隊などが使う盾は、原則として横並びで隊列を組むことを前提としている。今回の友加は単独の防衛で、左右からの援護が期待できないから、友加の体を半円状に覆うようにデザインされている。
虎蔵はそもそも相手が誰であろうと、盾に触らせる気はないのだが、万一はある。準備は人を裏切らない。
「うーん、横から刃が入る余地があるかな、もう少し幅を広くしてもらいましょうか、ハンドルも念のためにあと二カ所ほど。
扱えそうですか?」
「はあ、重くないですし、床につけていますから、だいじょうぶですけど……
あの、この中にすっぽり入っていろ、ってことですよね」
「もちろんです」
「あのぅ、わたしも何かお役にたてるかと」
虎蔵が、にっこり笑ってきっぱりと拒否した。かすり傷ひとつつけさせてたまるか、プライドに掛けて!
「そうですねぇ、防衛兼衛生兵、これでどうですか?
担当は射撃兵の防御と、兵が傷ついた時の救助と治療です」
「トラさん、怪我しないでしょう?」
「はい、するわけありません、守ってくれますよね」
「はぁ……、がんばります」
「万一に備えて、押入れのギリギリのところにキャスターベッド、点滴装置一式、外科手術道具一式準備してくれるみたいですよ?」
「はぁ、そうでしたか……」
「電気ないですからね、心電図装置や酸素テントはありません、電気メスもです。大怪我禁止です」
とか言っているが、怪我する可能性なんてあるのだろうか。
友加は部屋の隅、壁がL字型になっている場所に三角形の底辺になるようにサイズぴったり特注ポリカーボネイト透明盾を構えて陣取り、その内側で盾を保持し続ける練習をしている。虎蔵はその後ろに立って、そこから前方九十度に集中してテイザー・セブンで攻撃する。虎蔵いわく、いや、公安指示の、完全防衛フォーメーションだ。
攻撃側は十名程度と推定されるので、準備はその倍の二十名に対処できるようにする。
最初は、十二畳間一倍半の距離をカバーできる、有効距離十メートルを二発・二丁で四撃。
それを捨てたら、左右腰のホルスターから普通のテイザー二丁を順に引き抜いて二発二丁で四撃。
腰の後ろからさらに二発二丁で四撃、合計十二発発射できる。そのあとはカートリッジを交換する必要があるから、第一波はここまでで全制圧したい。
虎蔵は自分の長屋で、令和ではレプリカに触ったことがあるだけのテイザーの実物を手に、発射練習とカートリッジ交換練習を重ねていた。
*テイザー銃:電気ショックで筋肉を痙攣させ、短時間ではあるが身柄を確保できる程度に失神または闘争不能に陥らせる武器。カセットに二本の針とコードが仕込んであり、針は電極になっている。二本とも命中しないと電気ショックを与えられない。殺すことはない。
電源であるカセットと針がコードで結ばれているため、障害物がないところでしか使えない。歴史干渉を発生させると帰還できなくなる可能性があり、殺傷できないため、テイザーが武器として選ばれた*
テイザーは、当たった者に電気ショックを与えて昏倒させる武器だ。
間に障害物がない状態で使うから、まずは敵方に南の間の蚊帳を切り落としてもらう必要がある。
近接になったらスタンバトンとスタンガンだ。こちらの訓練は行き届いている。ただ、近接を許す気はない。
相手は千七百年代の特殊兵にすぎない。電気ショックを知らず、防刃装備の実効性を想像してみたこともない状態で、たかがふたりの護衛、と侮って侵入してくる。
暁の薄い光の中で、何かが飛んできて、仲間が次々に倒れる。攻撃が来た方向を確認する。そこで発見するのは、ヘルメットと保護メガネを着けた謎の兵、前を透明ポリカーボネイトの盾を構えた兵が片膝立ちで守っている。その盾役も全身謎の防具で身を守っている。
短弓を構えているようにも、何かを投げているようにも見えないのに、次々に仲間が倒れる。この状況でまともな戦いになるとも思えないのだが、まあ、根性と命令順守の慣性で近寄ってきてもらうのがいい。
準備期間中、手が空いていた幾絵が庵主の目を診察した。
左の眼は、ほとんど光を感じることができず、視神経の問題だと思われた。母君によると、生まれた時からの問題ではなく、一度強く頭を打ってから徐々に目が不自由になったのだという。
幾絵は目については詳しくなかったので、専門の本を探してもらい、知らないことは何重にも慎重にと木桶に消毒液を入れ、減菌布を準備し、庵主の目を丁寧に診察した。
「庵主さま、左目はあまり回復しないかもしれません。ですが、右目は、ぼんやりと見えていらっしゃいますよね。これは、見えるようになるかもしれません」
様子を見ていた母君が驚きの声を上げた。
「幾庵さま、まことにございますか」
庵主は静かに座っている。
「はい、薬で治るのではありません。庵主さまの右目の前に、ビードロでつくった道具をかざすと、今はぼんやりと見えているものが、かなりはっきり見えるようになるのです」
「ビードロの道具にございますか」
「はい」
「姫、お願いいたしましょう」
母君は、娘が出家した後も姫と呼びかけている。母の立場からすれば、娘を世間から守るために避難所として寺に入り、便宜上尼姿にしているという認識で、夫が死んで出家したわけでもなく、本当の意味で仏に仕える僧だとは思っていないのだろう。
「よろしいように」
庵主も母が責任を感じていることは十分に知っているから、なんなりと母の思うままにと思っている。
幾絵は、これは個人的なことだけどと桂に頼み、視力矯正のセットを準備してもらった。
何枚かの乱視と近視の矯正グラスを組み合わせ、なんとか風景に視点が合うと庵主の目から涙が溢れた。
「おたたさま、お顔がわかりまする」
母は涙を湛えながら何度も娘の頬を撫でた。
さすがにこの時代にメガネのように目立つものは渡せない。だから、グラス部分を特別に丸く作ってもらい、虫眼鏡のように作った木枠にはめ込んでもらった。
「庵主さま、母君さま、これは私の国で作られたもので、江戸にはこのひとつしかありません。頼まれても準備できませんので、どうぞご内密にお使いください」
と、言い含め、首から掛けて襟の間に差し入れ、必要な時には取り出して使うことができるように工夫した。胸元は尼僧の被り物で隠れる。
庵主は、母君の部屋でだけ眼鏡を使うことに決めた。
その日は夕立になった。大粒の雨が立ち木の葉を濡らし、風が草花を揺らすのを見ていた母と娘は、同じものを見るという静かな幸せに浸った。娘はそっと母の手に触れ、ガラス越しに母のほほえみを見ていた。
八月二十五日。虎蔵と友加、そして装備の準備が整った。
「さと殿、佐竹さまにおいでいただけるよう連絡をお願いできますか。
明日、紘子さまが本院においでの間がよろしいかと思います」
虎蔵の呼びかけに、さとはただ頷いた。
佐竹は、呼び出しに応えて暑い盛りに現れた。
「佐竹さま、お呼びたていたしまして」
表座敷に通され、幾絵と向き合う。虎蔵と友加は幾絵の後ろに控えている。
「こちらの準備は終わりました。まず、国東を見ていただきましょう。友加」
「はい」
友加は立ち上がり、小袖と笄髷姿でそろりと歩いて見せた。あまり長く見られなければなんとかなりそうだ。
「時間が限られているので、この程度です」
「うむ、よいであろう」
「はあ、よいであろうですか、ま、いいでしょう。
駕篭は、田中屋さんにお願いしていただけますよね」
「ああ、もう手配りした」
「ついて行くのは、虎蔵とさとさんですね」
「ああ、やむをえまい」
「紘子さまの護衛はその間どうしますか」
「本院の方から手の者を入れる」
「さとさん、友加、虎蔵と、三人ともいなくなりますよ、いいですね」
「ああ」
「根津の方の護衛はどうなりますか」
「攻めさせなくてはならんからの」
「はあ、なるほど、攻撃が始まるまで護衛は来ないということですか」
「ああ、そうだ」
「わかりました、さとさんから聞いているでしょうけど、こちらはトラと友加の防御だけです。さとさんや下働きの老夫婦までは守りません」
「わかった」
「簡単には落ちません。でも、相手が攻めてきたら、その後から旦那の手の者が来ることは期待しています」
「ああ、さとも抵抗する」
「結構ですよ、自分だけ逃げて、仲間に合流しても構いません」
「は、それでいいのか」
幾絵はにっこり笑った。笑うと人のよさそうな笑顔になる。
「もちろんですよ、佐竹の旦那、友加がさとさんを信用していませんから」
気まずい表情を見せながら、佐竹は打ち合わせの最後に日を決めて帰っていった。
「明日でよいか」
「いえ、明後日でお願いします」
「よかろう」
決行は、八月二十七日と決まった。
佐竹の旦那、お覚悟はよろしゅうございますかね