25.亀裂
場はとりあえず解散し、難しい顔で腕を組んで座っている佐竹は表座敷に放置された。
幾絵は納戸に紘子の様子を見に行き、うとうとしながら横になっているのでさとと目配せを交わしてそっと帰ってきた。
虎蔵は湯を沸かして、今日はそうめんにしましょうか、人が多いし、とか言っている。友加はそうめんいいですね、と、裏の畑に青シソの葉を取りに行った。
湯が沸けばそうめんはすぐに茹であがる。
さとが紘子の分を取りに来て、
「おぬるでございますよ、喉のとおりがよろしいですのでお楽に召しあがれます」
と、謎の名詞でそうめんを讃えながら、やさしく紘子にすすめている。
虎蔵が佐竹を呼びに行った。
「佐竹さま、そうめんいかがですか? あちらの涼しいところでご一緒にどうぞ」
腕組みを解いて、佐竹は困惑した顔を見せた。なぜ対立している相手と一緒にメシを食わねばならんのだ、だいたい誘いに来るとかおかしいだろう、と顔に書いてある。
虎蔵はそんなこと気にしなかった。早朝会議で徹夜明けの頭でガンガンやり合い、時としてタガが外れて怒鳴り合っている驚異的に高い経験値からすれば、この程度は対立しているともいえない。「ほんの少し立場的な食い違いがある」だけなのだ。
メシ食ってやり直せば済むことだ。怒鳴ればわかることもある。(脳筋~)
佐竹はいささかならずしぶしぶと厨前、風の通り道になっている場所にやってきた。やはり腹はすいているらしい。縁台や縁側に適当に腰かけ、四人はそうめんをすする。
ひとり分ずつ水を張ったどんぶりに小分けにされているそうめんが終われば、笊に山盛りにされているところから好きなだけ取ってきてまたズルズルとすする。
抜けて行く風は涼しく、見上げれば夏の青空に白い雲がもくもくとわいている。ああ、真夏なんだなぁ、と友加は思った。疲れて風に逆らえない蝶がふらふらと流されていく。
「あの、佐竹さま、無礼打ちになるのは嫌なんですけど、質問したいんですけどいいですか?」
友加がツユの器を左手に、箸を右手に持ったまま、そうめんをすするのを中断して佐竹に話しかけた。
佐竹は、ぶすりとしたまま答えた。
「何だ」
「はい、あのですね、お奉行さまは大岡越前守忠相さま、でいいですか?」
「そうだ、よく知っているな」
友加はかなり嬉しい。
「はい、あの、ちょっと、ファンなんです。えへ」
虎蔵が急いでサポートに入った。
「国東は、大岡さまの評判を聞いて憧れているのです。大変頭のいい方だと尊敬しておりまして」
「なんだ、それは。お仕えしたいとでも」
あわてて虎蔵が否定する。
「いえいえ、そういうのではありません」
女性がお仕えする、というのは側女に上がるというニュアンスを含んでいる。危険だ。潔癖系JKに言って許されるセリフじゃない!
「友加さん、お仕えするというのは、わりと個人的なニュアンスです」
「あ、ごめんなさい、そういうわけでは。失礼しました」
どうやら側女までとは思っていないようだ。
中谷は危機を乗り越えた!
「そうか、お役目を果たしたら褒美に出仕したいのではないのか」
「ああ、それですかか、そういうのもあるのですね。いえ、ぜんぜん。
ただ、確認したかったのです。お白州でのお裁きがとても人情深いと伝え聞きまして、どんな方なのかな、と、ただそれだけです」
「うん?」
大岡の有名な逸話のいくつかは作り話の可能性がある。ただ、就任五年目の奉行はそろそろ評判があがりつつある。
佐竹には全くわからない話だった。大岡に出仕するというのが危険なお役目を勤める条件なら、大岡に交渉する余地はある。剣の腕もいいし、年頃もまだ若い。意外といい側女になるかもしれない、とか、友加からすれば失礼極まりないことを考えていた。
佐竹、まだまだヌルい。潔癖系脳筋仕立てのJKが褒美なんかで釣れるはずもない。
さとが紘子の食膳を下げてきた。きれいに食べ終わっている。
「奥さまはたいへんお気に召して、結構でしたとの仰せです」
「それは良かったです。さとさんもどうぞ」
そう言って、友加はさとのために用意されていた盆を渡した。さとも、一緒に食べることに抵抗がないくらいには心を許していた。
「ありがたくいただきます」
と、手を合わせて食べ始めた。虎蔵が気をきかせておかわりをよそって渡すと、ちょうどそうめんがつきた。なんとなく空を眺めて、さとがそうめんをすする音を聞きながらまったりとくつろぐ三人。食事をするとなんだか眠くなる。
「大変おいしくいただきました」
そう言って箸を置くと、さとは今日の予定を伝言した。
「奥さまは、このあと本院へ行くとの仰せです。それで、小袖のお礼には何がいいかとお悩みでいらっしゃいます」
これはなかなか難しい課題だ。絶妙のタイミングで渡されたことから判断すれば、小袖の送り主は庵主親子ではなく将軍家だ。紘子が葵紋を受け取るときに恥をかかせないように、そのためだけに準備された。直接手配したのは田中屋かもしれない。
手配の手順は、懐剣を選んで装飾する、小袖を用意する、庵主親子に小袖の件を依頼する、渡されたことを確認する、佐竹に懐剣を運ばせる、となる。つまり、懐剣と小袖はかなり前から準備できていたということだ。譲渡のアクションだけが残されていて、今日実施された。
この状況を読んで、コネと手間を正しく評価しなくてはならない。さて、どうするか。
幾絵が回答を出した。
「さと殿、紘子さまから庵主さまのお目を診察するように依頼していただくことはできますか」
「え?」
さとだけでなく、虎蔵と友加も驚いて幾絵を見る。幾絵は庵主の母を診ているのだから、当然庵主も診ていると誰もが思っていた。
「いえね、庵主さまは丈夫な方で、薬を処方したことがないのです。この二年、目を診せていただく機会がありませんでね」
「幾せんせい?」
「うん、どういう状態かさえわからないんだよ。診ないことには何とも言えなくてねぇ。
さと殿いかがでしょう。紘子さまから、庵主の母君にお勧めいただけませんかね。あるいは良いことになるかもしれません」
幾絵はある程度自信があるのだろう。ただ、この時代の医療水準をこえるかもしれないことが心理的障害になって、言い出せないでいた。でも、口実が付くならやってみたい。
将軍の妻から、世話になっている尼僧に対して、お礼に医療支援を申し出る。筋はおかしくない。
さとも理解したようだった。
「幾庵さま、奥さまにお伝えしてみます」
そう言って、めずらしく微笑む顔を見せた。
さとが微笑むところを見たのは初めてではないだろうか、いや、どこかで一度くらい見たかも。三人は脳内で、セレクト・映像メモリー、スタート・サーチを実行した。
「それでは、このあと、お着替なされて本院の方に」
「はい、わかりました。庵主さまにお持ちいただきたいものがあります。どうぞこちらへ」
そう言って幾絵はさとを私室の方へ連れて行き、虎蔵が昨日のうちに用意していた菓子の木箱を渡した。患者さんを紹介していただいた挨拶という様式美だ。さとに代理で運んでもらえば、お茶菓子として四人で味わってもらえるだろう。幾絵の思惑としては、できるだけゆっくりお茶してきてね、という意味を含めていて、それはおそらくさとに伝わっている。
引き続き厨前の涼しいところで麦茶を飲みながら座っている四人。
佐竹に新提案が浮かぶまで、表座敷で座りなおしても意味がない。暑苦しいだけだ。
佐竹はこのまま成果なしと諦めて出直すと決めるか、なんとか答えを引き出すか、そのどちらかしか帰るタイミングがない。
幾絵は私室の方に姿を消すことができたチャンスを逃がさず、「今日の補給食は夜に頼む、幾」と書いたメモを押し入れに押しこんだ。
縁側で足をぶらぶらさせながら、ダラダラと時間が過ぎていた。
紘子がさとを従えて本院を訪ねる姿がチラリと見えた。さとの手には幾絵が準備した木箱だろう、風呂敷に包まれたものがある。
ちょっと飽きていた友加がなにげに言う。
「さと殿は、佐竹さまの部下なんですね」
佐竹が目を見開いて立ち上がった。一瞬殺気が噴き出し、虎蔵が友加の手を強く引いてその場から放り出した。友加は地面に転がり、それでも自律的に横転して片膝をついて起きあがった。
「佐竹さま」
虎蔵が低い声でとがめる。
佐竹はすぐに正気に戻った。
「すまぬ、驚いてしまった」
幾絵があきれて一言物申す。
「驚いたくらいでいちいち殺気を振り撒かれちゃぁ、こっちは命が十あっても付き合いきれませんよ、御庭番の旦那」
「うむ」
友加が立ち直って尋ねる。
「佐竹さま、わたし何か失礼なことを言いましたか?」
「いや」
佐竹が座りなおして友加に問う。
「国東殿、教えていただけるか。なぜ、さとがわたしの手下だと」
「あ、やっぱりそうだったんですね、いえ、誰でもわかるでしょう?」
「佐竹さま、すいません、私もわかりました」
虎蔵が追い打ちをかける。
不機嫌な佐竹に、虎蔵が順に説明していく。
まずは、大奥から根津へ逃げたのは紘子ひとりだった、と佐竹は言った。いや、正確には二度同じ手は使えないと言ったのだが、一度にふたり、つまり紘子自身と侍女をともに逃がすことはできないというのとそう変わりはしない。
つまり、大奥入場の時に差し出した、一生奉公の証文を違えることはできないから、紘子が抜けるなら身代わりが必要だ。それがもうひとりとなれば、不自然さはカバーしようがない。
また、交代が成功するためには、紘子の身代わりになって大奥にはいった女性に、紘子の大奥での経験を伝え、ミスがあっても補佐できる人物、すなわち、紘子の最も身近な侍女が必要不可欠だ。大奥に残った侍女は、幼少時から紘子に仕え、大奥に入るときにも付き従っていた、本物の乳姉妹だろう。
しかし、入れ替わり大作戦で大奥から逃がされた紘子の世話役になったと推定できるさとが、もうひとりの乳姉妹、つまり公家の娘である可能性は低い。
なぜなら、紘子が逃がされた根津の寮には、他に直接の護衛がいなかったからだ。さとは単独でもある程度紘子を守れる実力を持っているということだ。さとは、トラに根津の寮の警備の穴を指摘された時、南の部屋を譲らなかった。それは、自分が本当の警備責任者だからにほかならなかったのだろう。
友加は黙って考えていた。紘子主従が襲撃された場に佐竹が駆け付けたのは偶然ではなかったことがしみじみとわかった。喜んで参加したのは自分自身ではあったが、結果として利用された。
あの時出なければ、さとが時間を稼いで、佐竹が事態を収めていたのだ。
賊の拘束が終わった後、友加は紘子の前に膝を突いて草履を履く姿を隠してやった。そのわずかな間、後ろでは佐竹とさとが目配せで打ち合わせていたのかもしれない。
御庭番の部下であるさとに、巧みに根津の寮に引き込まれ、紘子の人柄に引かれて護衛紛いとなった。最初に紘子を慈恵院に連れていきたいと告げた時、さとが意外なほどあっさり了承したのも、佐竹の手下になっている虎蔵、その保証人である慈恵院の幾庵、そして突然現れた友加の関係性を計るためだろう。
飛んで火にいる夏の虫。私のことか。
カチリ、カチリとパズルの絵柄が嵌っていく。
それは死地からの脱出可能性を求める意思だったのか、それとも傀儡として便利に使おうとする卑劣な思惑だったのか。
偶然か、必然か、操られたのか、単に最善を選んでたどり着いたのか。友加にはわからなかった。
ただ、今、佐竹にやれと言われている、囮という役割が自分の意志ではないことだけははっきりしていた。
この佐竹宗三郎という男は、そして佐竹の主張している御庭番という身分が真実であるなら指示を出している徳川吉宗も、報告を受けてすべてを知っている。そして、そのうえで、葵紋を見せつけ、友加に命を掛けろと「命令」しようとしている。
佐竹宗三郎、ピンチです。乙女の正義感を、都合がいいからってんで思いっきり手玉に取った当然の報いですね!