20.予想通りの訪問者
前話は19.紘子は静かに目覚めるの筈だったのですが。なんか失敗しちゃって、17.田中屋を投稿してしまいました。さすがに数字が違ったので、今回は何と、すぐに気が付いて入れ替えました、スイマセン
あまりにも予想が的中して、気持ちが悪いほどだった。夕方には本院から伝言が来て、幾絵が呼びだされた。
「早速だよ、あきれるねぇ」
「患者さんですか?」
「ああ、明日のまだ涼しいうちに来たいとさ」
別院を頼ってくる女性患者は、それほど多いわけではない。身分のある武家の夫人は人とうわさ話をするチャンスが多くはない。法事、結婚式、季節ごとの節会などだが、裏方で働くならともかく、招待されて座っているか、女主人として差配しているのだから、内緒話をする機会がない。どうやって情報を集めているかというと、集まりで顔を繋いだ後手紙をやりとりするとか、乳母や侍女のネットワーク、母娘、姉妹と顔を合わせるごく少ない時間を最大限有効に使っている。
体調の悪い婦人が幾絵にたどり着くことは難しい。それでも全くできないわけでもなく、細い縁を辿ってぽつりぽつりと人が来る。婦人たちへ継続的に漢方薬を届けているが、その漢方薬を話題として、また静かに幾絵の情報が広がる。おんな医師の話を拡げるのは憚られるが、女性向けの漢方薬の話ならできるということだ。
幾絵にたどり着いても、直接慈恵院に来ることはできない。一度尼寺の庵主にお目通りを願わなくてはならない。庵主にとって幾絵は、母を診てもらっている大切な「御仏の御遣い」だから、簡単に「審査」を通過することはできない。
次の日の午前中、患者は静かにやってきた。
紘子は患者に見られることがないように、庵主が預かってくれている。
薬草の匂いのする診察室に、地味な小袖を纏った婦人がひっそりと座る。顔色は白っぽく、袖から覗く手には静脈が浮いている。後ろには付き添ってきた女性が控えている。
「森田と申します。こちらでは幾庵と名乗っております」
付き添いの女性がこれに応えた。
「花村家の大奥さまで、多喜さまでございます」
「花村さま、お苦しみのご様子、苦しいところをお教えいただけますか」
「はい、大奥さまは」
と、言いかける付き添いの方を見て、幾絵がおっとりと遮った。
「お供の方、大奥さまのお声をお聞きするのも、診察のうちでございますれば」
「はい」
と、付き添いは引きさがった。
「大奥さま、お苦しいところはどのあたりでしょうか」
婦人は、弱い声をだした。
「お恥ずかしいことにございますが」
幾絵は症状を順に聞き、病状から可能性を絞り込むと、日常生活についていくつか質問をした。それは、それほど難しい病気ではなかったが、女性にとって深刻なものに違いなかった。
「大奥さま、いろいろお聞きいたしました。治療のためと言え、言いづらいことでしたでしょう。お隠しなく話していただけましたので、原因も、お薬もわかったと思います」
婦人は、質問が終わってほっとし、薬を処方してもらえるのかと、じわりと涙が滲んだ。
「治りますでしょうか、幾庵さま」
「はい、病の元を全部消せるわけではありませんが、毎日普通にお暮しになれます。外出もおできになりますよ」
「ああ、ありがたいことです」
幾絵はにっこりとして、多喜に近付いた。
「お手をこちらに」
手を取って脈を診、両手で首を触診、次に口を開けさせ舌を診た。
「はい、結構ですよ」
「大奥さま、ご不快の原因は、お子が宿るお腹の中の袋にございます。女なら誰に何時起こっても不思議ではない、たくさんの人がかかる病にございます。
わたくしが修業を積みました道場では、筋腫、と呼びまして、お子の部屋の壁が、固くなって、筋ができるのでございますね。お子の部屋のすぐそばに排泄のための管がこう、」
と言いながら、幾絵は自分の下腹を指で指し示す。
「このように上から下に繋がっておりますので、固くなった筋がそのあたりを圧迫するのですね」
婦人の顔に理解の色が浮かぶ。
「はあ、それでご不浄が」
「はい、そうそう、さようにございますよ。出血もその固い筋のいたずらでございますね」
「ああ、ああ、そういうことですか」
「はい、あまりご心配なく。その筋を和らげる薬を差し上げます。柔らかくなれば次第にご不浄も楽になり、出血も減ってまいります」
「ああ、なんと。なんとありがたい」
多喜の目に涙が浮かんだ。
「大奥さま、よろしゅうございましたね、よろしゅうございました」
付き添いの女性が背をさすって、そっと懐紙を渡す。
続けて、薬はゆっくり効いて、時間がある程度かかるからと、その間を凌ぐために工夫した下着を見せた。こう、こう、してと、おんな医者ならではの突っ込んだ対処法をゆっくりと説明した。婦人に出産経験があることが幸いして、説明は比較的抵抗なく受けいれられた。
トラブルに対処できず、横になっていることが多いため筋力と体力、さらに食欲も徐々に落ちていた夫人の顔が明るくなった。
「死病ではありません、大奥さま。普通に生活なさってよろしいですよ。起きあがってお歩きになるうちに、食べられる量も増えてまいりましょう。お水も飲んでくださいね、痛みがあるのは管が細くなっているためですから。
これをさしあげます、ご不浄に長くしゃがみ込むのはお苦しいでしょう」
そう言って、幾絵は貴人の使うおまるを見せた。
「これは、公家の姫君がお使いになるものです。これに、こうお座りになり」
と、幾絵は作務衣であることを幸い、座り方を見せた。
「こうすると、お楽でしょう?」
婦人はまじめにおまるの使い方を実践する幾絵にほほえみを浮かべた。後ろの女性も笑い顔をこらえているようで、口元がぴくぴくしている。
場がやわらぎ、診察と処方は和やかに終わった。薬とおまるは、準備出来次第トラが届けることになり、婦人は足取りもすこし軽くなり、すすめられた麦茶を気持ちよく飲んで帰っていった。
昼前、紘子主従が別院に帰った時、幾絵はちょうど漢方薬を小分けにしているところだった。
「幾庵さま、そのお薬は今日の方のためですか?」
紘子はどんどん薬草への興味を深めている。幾絵もそんな紘子をきわめて好ましく思っている。
「そうですね、これは、桂枝茯苓というお薬です。ご婦人には珍しくない、下の悩みを解決するのです」
「そうなのですね」
紘子はにっこり笑った。絵を描くようになって表情が豊かになっている。
「女の方の悩みは、お医師には話しにくいですから。幾庵さまなら話しやすいのですね」
「そういうこともありますね。まず悩みを聞いて、原因の病を探り、絞り込んで探っていきます。その時、話してもらえない悩みがあると、やはり原因がわかりにくくて、どうしても薬の処方が難しくなるのです。
おなじ症状でも、原因が違ったり、その方の体力によっては薬が強すぎたりします。ひとりずつ処方する薬は違います。
長い修業期間と、先達からの指導、経験が必要になりますね」
「幾庵さまはご修行はどのくらい?」
「そうですねぇ、わたしの国では男も女も、6歳から15歳まで9年、学び舎に通い多くの師について色々なことを教わります。計算したり、本を読んだり、学んだことについて話したり書いたり、他にもいろいろな動物、植物、空の月についても学びます。
そのあと、三年間、もう少し難しい計算や、古い言葉、物事の道理を習います。学ぶうちに、子どもから大人になって、自分の行く道を決めます。友加はちょうど、学び舎で最後の年を送っていますよ。
医師になると決めたら、修業場に入るための試験の準備をして、合格したのち医師の修業場で六年、先達について二年、それでどうやら自立させてもらいましてね、そのあと、さまざまな経験を積んでいる大勢の医師が集まって患者を診ている場所で五年ほど働き、そのあと今の仕事に就きました」
幾絵は、高校から大学の医学部に進学し、インターンから大学病院に残り、そののち警視庁の鑑識課職員になったという内容を、紘子にもわかるように説明している。
紘子も後ろで聞いているさとも驚愕している。
「い、幾庵さまのお国には、たくさんのお医師がおいでなのですね?」
「はいそうですね、医師になるには、こちらのお国で言いますと、将軍家のようなところが行う試験に何度か合格しなくてはなりません。医師の修業場に入るとき、先達に付かせてもらうとき、自立するとき。医師になった後も、修業をさせる側になって若い人に教える仕事もあります」
「女のお医師も多いのですか?」
「ああ、普通におりますよ。世の中の半分は女ですから、同じ仕事をするのは当然ということですね。医師の適性、つまり、医師として修業を終えた後、きちんと仕事をやっていけるかどうかという能力は、男にも女にも生まれながらに等しく備わっています。その能力を男も女も等しく磨くように国が令で定めているのです」
幾絵の国、といっても、この同じ国の三百年後の世界なのだが。女の医師というところでとりあえず驚愕、つぎに医師になるのに試験があるところでさらに驚き。修業期間の長さ、医師の数、病院というコンセプト、すべてが初めて聞いたことであろう。
「あの、お医師になるための修業にはすごく時間がかかるということですが、その間はご実家で面倒見てくださるのですよね、ということは、幾庵さまはお国ではお武家さま、それもとても位が高いのですね」
「そうですねぇ、なんとご説明いたしましょう。
学び舎や修業場はたいがい将軍家とか、ご藩主さまのような方々が作って、運営しているのです。わたくしども修行者は、費用の一部を払うだけなのですね。
もちろん、より高い修業を受けるためには、より良い成績を出さねばなりませんが、道はいくつもございましてね。こちらで言いますと、商家に生まれた者でも、農民でも、だれでも試験でよい成績を出せば医師への道は開かれております。優秀な修行者は修行料も免除になりますし、生活するための金子も貸してもらえたのです」
そして、にっこり笑って付け加えた。
「私も金子をお借りしましたよ。返済するまではなんだか落ち着かなかったものです」
「はあ、そういう…」
紘子には想像もできないだろう。将軍家が女性個人に金を貸すなどと。そしてそれをこの幾庵は返済したのだという。
その日、布団に横になって後も、紘子は幾絵の生きてきた世界、男女が同じ修業を積む修業場について想像してみていた。
紘子が就寝したころ、令和の3人は栄養補給と称した晩酌を楽しんでいた。この日は午後一杯紘子主従が別院の方にいたので、夜の打ち合わせとなった。友加はもちろんジュースだ。
行燈の明りがやわらかに3人を照らし、夏のぬるい風が夜風にかわって少し楽に呼吸ができる。
「きましたねぇ」
「気持ち悪いほど当たったねぇ」
「あの、幾せんせい、あのご婦人がスパイですか?」
「いや、友加、あれは本当に病人だよ。子宮筋腫だね。
スパイは付き添いの方さ」
「子宮筋腫って、切らなくてもいいんですか?」
「ま、いろいろだよ、あの患者さんは、薬で押さえているうちに自然に落ち着くだろうよ。
どっちにしてもこっちでは手術なんてできないんだから、薬しかないんだよ」
「あ、そうか」