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18.紘子と幾庵

 令和三人のごはん作りも大分手順がよくなってきた。

 素振りと着替えを終えた友加は、厨に来ると水壺を井戸まで持って行って、中をきれいに洗う。壺を元の台座に返したら、木桶で井戸から水を運び、壺を一杯にする。見た目を美しくなるよう木蓋と柄杓を置く角度を調節して、ちょっと満足する。

 羽釜に米を入れて研ぐと、とりあえず浸しておく。水加減まではわからない。次に菜切り包丁を取り出して、井戸辺で研ぐ。


 このあたりで幾絵と虎蔵が顔を出して、朝の立会いミーティングだ。

 この日は、虎蔵が裏の畑から夏大根を抜いてきていた。洗面器くらいの木桶に豆腐が1丁水を被っている。ほかに竹皮に包んだ厚揚げ。そこにタイミングよくアサリ売りの声が聞こえて、今朝のメニューが決まった。

 菜飯ご飯、アサリの味噌汁、大根を千本にして塩で揉んだもの、揚げと大根葉のあえ物、紘子のために炒り豆腐となった。

 幾絵がご飯と味噌汁の担当、虎蔵があえ物と炒り豆腐を担当する。友加には指令が出て、大根を5センチほどの長さに切り、皮を剥いたら、千本に挑戦する。大根の葉は、きれいに洗って和え物用に軸を4センチほどにざく切り、葉の部分は荒くみじん切りにして軽くゆでる。刻んだ葉の一部は焚きあがったご飯に混ぜて、菜飯にする。

 指令に従って、まず葉を根元から落として洗う所から取り掛かる友加は、真剣そのものだ。



 その日の午前中、幾絵は薬研やげんを取り出し、芍薬をゴリゴリと磨り潰していた。甘草と混ぜて小柴胡湯を作る。

 明け放たれた障子の間から、通りがかった紘子が幾絵の姿を認めた。

「幾庵さま、お薬を作っておられるのですか」


 幾絵は手を止める。

「ああ、紘子さま。ご不快はいかがですか、薬の匂いが気になりますか?」

「あ、いえ。あの、いい匂いだと思います」

 幾絵がにっこり笑った。

「そうでしたか、お気に留まりましたのならこちらでご覧になりますか?」

「よろしいですか、お邪魔になりませんでしょうか」

「ああ、かまいませんよ」


 紘子は、興味深そうに幾絵の手元と磨り潰されていく薬草を見ていた。

「これは、芍薬の根です」

「そうなのですね、あの美しい花の根の部分がお薬になるのですか」

「ええ、根を乾かして作ります。興味をお持ちになりましたか」

「はい、お薬って、とても手間がかかるのですね」

「そうですね、手間もかかりますけれども、こうして磨り潰すよりも前に、根を掘り上げる時期、堀った根を乾燥させる場所や時間、保存する方法など、手順には長い修業が必要です」


「お薬になる木や草って、たくさんあるのですか?」

「紘子さまが知っておられるというと、よもぎもお薬になります。

 いいものをお見せしましょう」

 そう言って幾絵は、薬研を押す手を止め、少し黄ばんだ帳面を拡げた。幾絵の患者のひとりが快癒のお礼として届けてくれた、古い薬草帳だ。誰がいつ頃作ったのかわからないが、一枚の和紙に一種の薬草が描いてあり、効能と薬にするための手順が添え書きしてある。二十枚ほどが丁寧にこよりで閉じられており、蔵の奥の木箱の中、絹の布に包まれて大切にしまわれていたらしい。

 再び薬研を押す幾絵の側で、紘子はゆっくりとページをめくって長い間見ていた。


「幾庵さま」

「はい?」

 余りにも長くじっとしているので、幾絵は紘子の存在を忘れかけていた。芍薬を終え、甘草に取り掛かり、それも終えてふたつを匙で慎重に混ぜ合わせているところだった。

「あの、この絵ですけれども、わたくしも描いてみたい」


「え?」

 辛抱強く後ろに控えていたさとがちょっと嬉しそうに説明を加えた。

「奥方さまは絵がお上手なのです、幾庵さま」

「あの、お薬になる草や木を絵にして、薬にする方法を教えていただき、このような綴りを作ってみたいのですが、あの、だめでしょうか」


 幾絵は、このどちらかというと流されやすい性格に見える姫が自分から何かを求めたことに驚いたが、もちろん反対する気など微塵もなかった。むしろ背を押したい。

「そうですか、とりあえず腕慣らしに花から描いてみましょうか。何が必要ですかね、紙、普段使いの硯と墨、筆、それから細い線が書けるように竹を細く削ったものを用意しましょう。

 友加、友加、ちょっとおいで」


「はーい、今行きます」

 友加が厨の方から返事をして、回り込んできた。今日もなんだか作っているのだろう。匂いから察するにメインは炭かもしれないが。

「はい、せんせい、お呼びですか」

「紘子さまが花の絵をお描きになるので、トラにそう言って道具を揃えてもらってくれるかい」

「はい、わかりました」

 紘子は嬉しそうにしている。



 夕方までには虎蔵が紙、硯、墨、細筆を買い集めてきてさとに渡した。竹を持って納戸の前、紘子とさとの座る縁側の庭に片膝をついて座ると、切り出しで削り始めた。

「これで細い線をお描きになれます。どうぞ握ってみてくだすって」

 と言って、さとに渡す。紘子が握ってみて、絵を描く仕草をする。

「先を斜めに切っておりますので、こう、背のほうで描けば、細い線が出ます。斜めに使っていただけますと、もう少し太い線も出ます。いかがでしょうか」

「トラ殿、ありがとう」


 公家の姫君の笑顔は、古谷虎蔵、二十八歳、京都府警刑事四課勤務のハートを裏側まで撃ち抜いた。

 高貴な微笑み。

 現代日本に帰ったら、二度と出会うことはできないだろう。がっちり記憶に焼き付けておこう。

 もう少し紘子の前にいたいばかりに、さらに一本削った。


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