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17.田中屋

 その日の夕方、幾絵のコネのひとり、田中屋への手紙の添え書きを頼んだ老婦人宅から、やっこが美しい漆塗りの箱を届けに来た。いろどりも華やかな紐が掛けられ、コツを知らないとうまく解けない花の形に結ばれている。結ぶ人に手のクセというものがあるから、一度解かれると結びなおしてもわかるという一種の遊びで、暇を持て余した老婦人が紐を組むところから自分でやっている。

 奴は、くぐり戸で使いであることを告げ、縁に回って膝をついて箱を捧げ持ち、この場で返事をもらって帰りたい旨を告げた。


 幾絵が箱を受け取り、あっさり紐を解くと焚きこめられた香がほんのりと立った。夏らしいさっぱりとした香りだった。包みを開いて取り出した手紙を見ると、見事な散らし書きで、あやや、と思いつつもなんとか意味だけはわかった。要するに、明日来なさい、と、まあ、それだけの内容だ。伝言ですむのにねぇ、とため息をつきつつ、返事は伝言で済ませることにした。

「大奥さまに承知いたしました、と伝えてください」

 紐をリボン結びにして返し、百文銭をおひねりにしたものをお駄賃として渡した。

 奴は、「へい、すいません、ありがたいことです」と機嫌よく帰っていった。


 虎蔵が夕食に現れるのを待って、幾絵は次の日の予定を聞いた。虎蔵は別にこれといって決まったことはないと答えた。

「トラ、すまないけど、明日は付き合ってもらえないかい、先触れと供を頼みたいんだけど」

「はい、かまいません」

「まず、朝イチで、先方に行って、何時頃に伺えばいいか聞いてきておくれ。

 その時間に合わせて、髪床と銭湯に行って、一番いい着物に着替えて薬箱持ってついて来てもらえるかね」

「はい、わかりました」


 次の朝、使いから帰ってきた虎蔵は、訪問が午後からということになったので余裕をもって身なりを整えることができた。

 時間がきて、柳染の夏小袖、琥珀色に紫鳶むらさきとびで吉祥文が織り込まれた細帯を締め、短い髪を覆う頭巾を被った幾絵が現れた。友加と紘子主従が感嘆の目で見ている。いつもは作務衣のような簡易な衣服を着ている幾絵は、姿を整えると非常に美しい女性だった。特にこの時代では大柄で体格のいい女性は少ないから、訳ありの高貴な人にも見えた。

 鉄漿おはぐろをつけていないところと、化粧をしていないところから、独身の在家出家で身を慎んで静かに生きていると思われることだろう。令和の人間は、享保の人間に比べれば幼少時から栄養状態が非常に良く、体格のみならず肌や髪も年齢を感じさせない。きちんと装った幾絵は、見た目三十そこそこである。

 手配の駕篭に悠然と乗り込み、縞の夏小袖をきちんと着つけた虎蔵が、濃茶の風呂敷に包んだ薬箱を抱えてついて行く。


 夕方帰って来た幾絵は、着替えを持って湯家に行くと、いつもの楽な衣装に着替え、どかりとばかりに私室に座り込んでため息をついた。

「幾せんせい、お疲れさまでした」

 友加が井戸で冷やした麦茶をすすめる。

「ああ、ありがとう」

 麦茶で一息入れ、友加の前に包みを出した。

「ほら、これ見てごらん、もう」


 友加がおそるおそる包みを開くと、紙に包んだ金色の何かが整然と並んでいた。

「せんせい、これって」

「そうさ、これが小判だよ」

「へ~、でもいくらあるんです?」

「ひと包みが二十五両ね」

「え~っと、いち、にい、さん、百二十五両?」

「だねぇ」

 うひょ、おいくら万円?とか思っているうちに、虎蔵が着替えて参加してきた。


「トラさん、おつかれさまでした」

「はいはい、どうもです。ああ、疲れましたよホント」

 幾絵がそうだろそうだろ、とねぎらった。

「疲れたよね~、なんだいあの田中屋ってのは。

 友加、トラにも麦茶お願いね、悪いけど。ついでと言っちゃなんだけど、おかわり頼むね」

「はい、すいません、気が利かなくて、いますぐ」


 友加は麦茶のおかわりを大きめの湯飲みにたっぷり入れ、第二弾の手作り菓子、団子を真ん中に入れて市販のあんで包んだだけのあんころ餅を運んできた。最初からこっちにすれば楽だったと反省している。

「おや、上手にできたじゃないか」

「はあ、団子粉を練って茹でたらできちゃいまして」

「なるほどねぇ、学習したねぇ」

「はい、がんばります!」

 量目を正確に量り、水の量がピッタリになるように素焼きの器まで準備してくれた母、桂に感謝する以外ない。「遠いところからお母さんしてるねぇ、ケイは」と思いつつも、なかなかいいできだと上手に褒めるのだった。


 虎蔵は、あ、コンビニよりおいしい、と思ったが、絶対に口には出さなかった。JKの手作り和菓子だ。二十八歳、まだまだ駆け出し刑事には、押し頂いておいしいです、と言う以外の回答は存在していない。

 ともあれ、あんころ餅は疲れた体と心に染みわたる甘味だった。


「森田先生、いくら入っていました?」

「百二十五両」

「ひえ~」

「トラさん、これ日本円でいくらなんですか?」

「はい、一両が三万円から五万円ですね。何を比較の基準にするかで変わるんですけど」

「ええ~~、これって、じゃあ、大雑把に五百万円くらい?」

「まあ、そのくらい」



 *このころはいわゆる金本位制(お金は金と交換できる)だから、目方で値段がついたりする。丁銀という貨幣もあって、これは銀を細長く伸ばした感じで重さは様々。秤で量って価値を決める。(*実物は造幣局の博物館で手軽に見られます~)

 小判なら、例外はあるけれども、一枚一両。この価値は計るのが難しい。

 とりあえず庶民感覚満載で考えてみよう。

 一文銭というのがある。丸いコインで、真ん中に四角い穴があけてある。銭形の親分さんが必殺で投げるやつだ。それを拾ってネコババしたらいくら儲けたことになるだろうか。


 一文銭を四千枚集めると、一両だ。一文銭は、すり減りやすいので、だいたい百五枚くらいを穴に紐や藁を通して百文として扱ったらしい。ほら、目方が問題になる金本位制だから。

 それで何が買えたかと、いろいろ調べてみても、物の価値に大差があって、比較するのが難しい。で、大雑把に、一文銭を投げても、おしずさんが平次くんを家からたたき出さないでいてくれるのだから、絶対に十円以下だよね、と思う。つぎに、百枚単位で扱ったのだったら、一枚十円なら百枚通しで千円。

 これで計算すると、一文銭四千枚は、つまり一両は、四万円。

 江戸時代の物の値段は、千石取りとか、十万石の大名とか言うところからおそらくその年のコメ価格で上下していたのではないだろうか。


 なお、一文銭を紐に通して細帯に括っていたのは、振り売りを呼び止めて1個3文くらいのキツネ寿司を買って立ち食いしたり、木戸が閉まるのを気にしながら16文くらいの蕎麦を搔き込んだりするときに、細かいお金を落としにくくて便利だったろうな、と思います*



 幾絵が老婦人の隠居家を訪れると、美老女が迎えた。

 老婦人は、大奥で長くお勤めした人だ。奥医者に死病と診断され、一生奉公の誓詞を返してもらって報奨金とともに大奥を退がった。その後、幾庵に巡り合い、辛くも命を長らえた。静かに余命を楽しんでいるが、彼女の持つコネは見当もつかないほど幅広く貴重である。


 風通しの良い内庭に面した座敷に通された。虎蔵も座敷に通され、入ってすぐの襖の前でちんまりと座って控えた。

 廊下から白髪を髷に結った小柄な老人が案内されてはいってきた。白鼠しろねずみの夏小袖にはなだの細帯を合わせるという、夏らしいが渋い装いだ。


「幾庵さん、田中屋さんですよ」

 そう言って、老婦人はにっこり笑った。幾絵が驚くのを嬉しそうに見ている。

 老婦人が上座に、幾絵がその前右手、田中屋が左手で向かい合って座った。若い侍女がお茶を給仕して下がっていく。虎蔵の前にも小さくて華奢な湯飲みが供されて、虎蔵は驚いて侍女の顔を見たが、目を伏せたままきれいな仕草で去って行ってしまった。

 田中屋はそれを見逃さない。老婦人は暗に田中屋に、虎蔵の身分を明かしたのだった。


「幾庵さま、この度はわたくしどもでお預かりした形になっております紘子さまとさとさまにお気遣いいただきまして、ありがたく存じます」

 田中屋は手をついて礼を言った。

「田中屋さん、どうぞお手をお上げになって」

「はい」

 手を上げた田中屋は、両替商というよりも武家に見えた。


「奥さまは、たまたまわたくしの姪がお助けいたしまして」

「はい、さとさまのお手紙が、ようやくわたくしどもの方にも知らされて参りまして。事情を聞きましたのもつい二日ほど前でして、不調法なことでした」

「いえ、姪の若さでございまして、考えもせずに飛び込んだのですよ、かえってご迷惑だったのではありませんか」

「いえ、そのような。間に合わなくなるところをお助けいただいて」

「いえいえ」


 幾絵は、これは嘘だと思った。紘子は十分警備されていたはずだ。ただ、警備されていることを誰かに知られるより、飛び入りの友加の方が便利だったということだ。友加がやられたら、次があったのだろう。


 やりとりは腹の探り合いの様相を示していたが、誰が相手であろうと、桜田門の鑑識課員が怯むことなどありえない。何度刑事裁判の証人に立ったことやら。虎蔵は、サクラダモン~、とか心中呟きながら、ほとんどうっとりして両者隙のない攻防を聞いていた。


 最後に、田中屋は、廊下に控えていた中年の手代に声を掛け、漆塗りの盆に袱紗、その上に紙包みの小判を重ねたものを膝の前に押し出した。

「これは、慈恵院別院への寄進にございます」

 一瞬、さすがの幾絵が声を失った。桜田門ではワイロは一切受け付けていない。だから、お金の受け取り方、拒否の仕方がわからなかった。

「田中屋さん、こういうときにどうしたらいいのか、ちょっと私はわからないのですが」

 だから、幾絵は最善の手を選んだ。この相手にわかったふりをすれば、侮られる。負けへの一歩目だ。


「さて」

 と、田中屋も上手に受けた。しばらく考え、受け取ってもらうための方便を組み立てた。

「紘子さまのご実家からのお世話料、で」

「なるほど」

 小判の出所は、田中屋ではない、と男は言っている。本来の保護者が、被保護者をよろしくかくまってくれと言っているのだ。受けたほうがいい、そして責任を取ることになるだろう。友加、虎蔵、庵主親子、紘子主従、その他関係各人の安全保障料だ、多すぎはしない。

「わかりました。たしかにお預かりします」

 こうして、友加だけでなく幾絵と虎蔵も、紘子の番犬を引き受けたことになった。


 梅染地に夏草を描いた小袖でおっとりと場に座っているだけの老婦人を、少し恨みがましく見やったが、べつに彼女は動じていなかった。この程度は修羅場でさえない人生を送ってきた人だ、ほほえみ返しされてしまった。


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