16.誰にもわからない
紘子の悪阻が始まった。
朝起きたら気持ちが悪く、水を飲んでも吐いてしまう。起きてしばらく布団に座り、また横になりと繰り返し、一時間ほどするとすっとなおる。その隙に朝食を食べ、寝所になっている奥の納戸から小さな内庭に出て、縁側に座っている。
さとがずっと付き添って、水を飲ませたり、団扇で軽く風を送ってやったり、手厚く面倒をみている。昼頃からはぐっと楽になり、短い間なら本院の方に顔を出して、挨拶をしてくることもできる。
虎蔵が、気晴らしにどうぞ、と言って、貸本を準備した。
「下賤な内容かもしれませんけど、お気晴らしにいかがでしょうか」
そう言って、さとに浄瑠璃姫の貸本の草紙を差しだした。
「義経公を物語に仕立てたものです、人形芝居にもなっておりますようで」
さとは草紙を手に取り、中身を見ると、珍しくにこりとして虎蔵にお礼を言った。
「虎蔵殿、お気遣いありがとう。奥方さまはお喜びになると思います」
「はい、お役に立てば。お気に召すようでしたら、続きを順に借りてまいります」
「そうですか、気を使っていただきました」
「いえ、奴の浅知恵にございます」
草紙を持って縁側に座っている紘子は楽しそうに見えた。
悪阻の紘子が、それでも本院に顔をだしているほんの短い間に、三人は素早く補給食をかきこみ、公安から届いた書類を読んだ。プリンターによる活字印刷だから、享保側では保管できない。
「この書類は、仮に紘子が大奥竹姫の侍女だったとして、どうやったら大奥から根津の寮に脱出してくることができるか、方法はあるのか検討してくれているね」
「確かに。そもそもせっかく妊娠した大奥の女性をなんだってまた外に出したりしますかね」
「そうさねぇ、なんだか事情はあるだろうねぇ」
大奥に入る身分ある女性は、将軍の私生活に直接接するから、それが外部に出ないために一生奉公の誓紙を出すことになっていたらしい。つまり、実家にちょっと帰ったり、結婚して引退することはできないということだ。ただ、抜け道はいくつかある。
もっとも正式なものは「代参」だ。主である正室あるいは側室が外出を許されないため、その代理で侍女がお寺などにお参りすることを言う。
紘子が竹姫の侍女であったと仮定して、江戸城の敷地から出るにはそれが最も穏便だ。
おそらく、代参の供として筆頭の侍女に従って寺詣をして、そこで入れ替わったのではないか、入れ替わることができたとすれば、紘子の身分はそれほど高くなく、目立たない役割を果たしていただろうし、入れ替わって大奥勤めをしている身代わりの女性は、紘子の姉妹や従妹、顔や体つきが非常に似ているのではないか、という。
他の手段、たとえば絵島生島事件のように、衣装櫃に潜むとか、宿下がりを願う下働きに身をやつすなどというのはあまり現実的ではない。特に、現に享保に来てそこで生活している幾絵と虎蔵から見れば、ほとんど不可能に思える。やはり、将軍の威というのは行きわたっていて、その威を積極的に犯せば、その場で切り捨てられることになると実感できる。
「うーん、大変だねぇ」
「一大イベントですよね」
「どうやったら可能になるかね?」
「幾せんせい、これって、集団でやらないと無理じゃないですか?」
「そうだね、関係者全員が了解してないとね」
つまり、少なくとも竹姫と筆頭侍女、同行した侍女たちは全員共犯だ。更に、仮に警護の侍たちには侍女入れ替えがわからなかったとしても、紘子に接した吉宗は紘子の妊娠について知っていたし、いわゆる隠密、吉宗に御庭番と呼ばれていた者たちは間違いなく知っていて、協力しただろう。
つまり、入れ替わりがあったとしたら、吉宗の指示だったということになる。
「それで、なんでまた牧野家の正室ということになったのかねぇ」
「年表によると、牧野家はお目見えを禁止されていたみたいですから、お目見え復帰の交換条件で預からせる、ということでしょうか」
「ちょーっと弱いかねぇ」
「弱いですかねぇ」
「そもそも将軍の子ならば、大奥で産ませりゃいいんじゃないかい? 産んだ後で、誰か側室が産んだことにして、紘子を乳母にすりゃいいじゃないか」
「う~ん、できますかねぇ」
「うーん、どうだろ」
もう全然わからなかった。将軍の子なんだから、妊娠しちゃったら側室認定してしまえばいいじゃないかというのは単純すぎるのだろうか? わからないのは、時代の壁が高すぎるせいなのか。いやもう、吉宗説自体が間違っている、という今更な暴論が出そうになった頃、紘子が別院に帰ってきて秘密会議は解散になった。
「おかえりなさいませ」
「ご気分はいかがですか?」
虎蔵はさっと縁側から消え、友加と幾絵が迎えた。
「はい、おかげさまで今日はご不快もなく」
さとが答える。
四人は、居間に場所を移し、紘子を上座に和やかに座った。友加が紘子のために水ようかんと冷えた麦茶を運んだ。水ようかんが享保の時代にあるかどうかよくわからなかったのだが、要するにこしあんを寒天で固めるんだよね、という安易な解釈で、粉末寒天と市販のこしあんを送ってもらって、レシピ片手に友加がすごく頑張って作ったものだった。
温度調節ができない七輪の炭火で作って、遂に砂糖の入った材料を焦がさないところまで到達したのだから、大いに褒めてもいいところだ。成功までに鍋の中に出現した数々の炭は経験値となって竈の火に浄化された。
水ようかんをそっと口に運んだ紘子が、
「冷たくて甘い、おいしいですね。これは何というお菓子でしょう」
と、聞く。
「これは、祖母におそわりました。わたしは不調法で厨に立つのは苦手なのですが、紘子さまがご不快でも喉を通るかと思いまして」
友加が、ちょっと恥ずかしそうに小さな声で言う。
「国東さま、ありがとうございます」
紘子が微笑んだ。
「あの、さと殿もいかがでしょうか、よろしかったら」
「はい、お願いいたします」
そう言ってさとは頬を緩めた。この毎朝素振りをしている剣士が、鍋を左手に箸を右手に、炭火と格闘しながら菓子を作るというのが面白かったのだろう。
友加にお料理経験値をもたらして炭と化した少なからぬ量の粉末寒天とこしあんは、四人の女性の口福を生み、和やかな空気をもたらしたのだった。
水ようかんを口にしながら、幾絵が話しかけるともなく話した。
「紘子さまのお子は、女の子ではないでしょうかねぇ」
さとが頷く。
「はい、わたくしもそのように」
紘子が聞いてくる。
「さとが姫だというのですけれど、幾庵さまもそうお思いですか」
「あ、失礼しました。声に出ていましたね。
私の国では、悪阻が軽いと女の子、とよく言うのです。実際、経験談を聞くとわりと当たっているんですね、もちろんすべてではありません。妊婦さんの生まれつきの体質が悪阻に強い弱いもありますので」
「そうでしたか」
「紘子さまは男の子と女の子、どちらがいいですか?」
友加がうっかりしたことを聞いた。近しく付き添ううちに、距離感を見誤って姉に聞くように気軽に聞いてしまった。この時代、紘子の立場では大問題になるだろうに。
さっと緊張した雰囲気に変わったが、紘子は気にしなかった。
「そうですねぇ。お子は神仏からの授かりものですもの。
お生まれにならないうちにどうこう言えませんけど。そうですねぇ、国東さまのように活発でお優しい姫だと嬉しゅうございます。母がわたくしにしてくださったように、髪を梳いてさしあげられたら」
紘子の手が、自然に自分の髪に触れる。妊娠中の紘子の髪は苦しくないようにつけ毛もしないで緩く結ぶだけの垂れ髪にしてある。
「すいません、出過ぎたことを」
「いえ、いいのです。心に思うのはわたくしの勝手次第ですもの」
さとがちょっと困った顔をしたが、不安定な妊婦の心をおもんばかって、とがめることはしなかった。
茶を飲み終わると、紘子は納戸へ下がり、横になった。さとは紘子の足をゆっくりとさすってやることだろう。
ふたりを見送って、幾絵と友加は顔を寄せるようにしてごく低い声で話す。
「幾せんせい、やっぱり吉宗説正解ですか」
「どう思う、友加は」
「お生まれになる、髪を梳いてさしあげる、ですもん」
「そうだよねぇ、生まれてくる子が自分より身分が高いということだよねぇ」
「ですよねぇ、やっぱり。生まれる前からあんな風に言うのですね、驚きました」
「うん、そうだね。ほら、昔は生まれた時一歳ってかぞえるだろ、知ってるかい?」
「はい、数えでいくつ、って、祖母はまだ言います」
「そうそう。腹に宿ってから、生まれるまで一年弱かかるから、生まれたら一歳、って考えるのじゃないかねぇ。ま、腹の中で動くし、生きている扱いするのも当然なのかねぇ。流産や死産になった時、辛すぎるだろうに」
「よくわかりませんが、紘子さまはお子を喜んでおられることだけは感じられます」
「そうだねぇ、難しい状況なんだろうけどねぇ」