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15.事件

水死状態を論じるシーンがあります

読まなくてもストーリー進行に大きな影響はありませので、自衛なさってください

パスする方にとって必要な情報は、これは紘子を護衛している側に対する警告あるいは威迫ではないかという虎蔵の見解です

 次の日の早朝、友加は別院の庭で仮想対戦相手を吉宗に特定して素振りを繰り返していた。燃えている。


 そこへ、くぐり戸を叩く音が響いた。門脇から塀を壁の一部として建てられている長屋から虎蔵が出てきて、相手の声を確認して戸を開く。相手を見て、門を潜って外に出て用件を聞く。寺院は寺社奉行の管轄で町方は介入できない決まりだから、虎蔵が佐竹について歩くにもこちらから金を払って“社会勉強させてもらっている”。それだってぎりぎりのラインで見逃してもらっている状態だから、虎蔵は慎重だ。


 小者から用件を聞いた虎蔵が、友加の方に来る。

 友加も虎蔵を見とめ、吉宗の残像を振り払って素振りを止める。

「おはようございます」

「おはようございます。

 すいませんが、森田先生に伝言をお願いできますか」

「はい」

「佐竹さまのお呼びで出ます、とお伝えください。昼過ぎまで留守になると思います。よろしくお願いします」

「わかりました。トラさん、お役目ご苦労さまです」

「お勤めしてまいります」

 虎蔵も、友加をできる限り丁寧に扱うように心がけている。時代劇好きを鋭く察して、好みに合うようにセリフを選ぶところなど、それなりに気を使っている。

 それは、上司の妹に対する上辺の親切だけではなく、大人として未成年者がこの異常事態を無事に潜り抜けられるようにという心遣いでもある。


 友加はもうしばらく素振りを続け、着替えを持って湯家に行き、井戸の水を運んで体をぬぐった。熱いシャワーを浴びることができない環境はつらくもあったが、時代劇を実感できるという意味では嫌いではなかった。不満は髪を洗うのが難しいこと。これはどうにかしたいところだった。

 友加は、享保に来て以来、藍染の筒袖と練習用の短袴を着続けている。着替えは虎蔵が古着屋から買い集めてくれた。それを洗っては替えて、袴は寝敷き(寝るときに布団の下に敷いてアイロン代わりにする)でラインを保っている。

 紘子は、さとがどこからともなく着替えを調達してきて、毎日のように美しい絵柄の夏小袖を纏っている。今日の模様は流水に鯉だ。やりようによっては派手になる柄域だが、夏小袖の薄いつくりを存分に使って、淡い色であっさりとまとめてある。


 朝食の準備ができ、別院の居間で紘子が上座、その下手に幾絵と友加が向かい合わせに座り、さとの給仕で静かに頂く。メニューは、白米、葱とあげの味噌汁、冷奴、香の物。紘子には炒り卵が付いている。紘子は自分だけ別に一皿付くことを嫌がったが、幾絵が医師の処方と言って説得した。


 このころの食事と言えば、朝はご飯、味噌汁、香の物。昼は湯漬けに香の物。夜はご飯、味噌汁に焼き魚か煮魚、野菜が一皿といったところだろう。

 別院では、横塀を壁の一部として建てられたくりやで本院とは別に煮炊きしている。幾絵と虎蔵はこの時代の人とは体格もこれまでの食生活も違うから、同じ食事をしていたら栄養失調になってしまう。その意味でも幾絵が最初に来たのは良かった。

 牛乳がないところはカルシウム摂取の面から辛かったが、そこは小さな干魚を焼いたり煮付けたりしてまるごと食べることで何とか間に合わせた。また、この時代には四つ足でないものの肉、つまり、鳥類の肉や卵は禁じられていないから、蛋白質という面では何とかなった。鳥や鴨の肉は、振り売りが売り歩く。

 鳥と葱のナベに豆腐を加えて、アルコール度のとても低い日本酒的な何かを一杯いきながら夕食をつつくのは、虎蔵と幾絵にとって栄養補給と憩いのひとときだった。これで生たまごにつけて食べられればねぇ、というのが共通の感想だった。サルモネラ菌が怖くて、たまごを生で食べることができない。


 桂経由で物が手に入るようになってから、栄養面は大幅に改善されている。午後、紘子とさとが本院に出かけた後、幾絵が桂の部屋から令和側のサポートチームが栄養計算をして不足した分を補うために準備した栄養補給食を取って来る。何度試しても、桂の部屋には幾絵しか入ることができないでいる。

 補給食は令和で食べていたものがいいということになり、牛乳、オレンジジュース、チーズトースト、パスタ、ハンバーガー、ホットドッグ、コールスローサラダとフライドチキンなど、若い友加と虎蔵の好みを取り入れている。これでふたりのストレスはかなり軽減された。

 その場で食べて、直ちに容器を返しに行かなくてはならないところが不自由だったが、すぐに改善されて素焼きの容器、和紙、竹の皮、杉箱などが使われるようになった。


 友加の無事な帰還が幾絵に掛かっていることを十分に理解している桂は、物のやりとりができることが確認できた日、ただちに幾絵のために晩酌セットを差し入れた。

 これを知ったサポートチームも幾絵に対するストレス対策を視野に入れ、濁り系の日本酒と気の利いたおつまみの晩酌セットが用意されるようになった。これでたばこの回数を減らすことができ、幾絵も楽になった。

 滞在が何日かで済むのか、数年に渡るのか、桂の部屋がいつまで連絡に使えるのか、すべてが不明な中、この時代にあっても不自然ではない偽装を施した密閉容器一杯にサプリメントやプロテインが準備され、下手に疑惑を招かないよう堂々と幾絵の診察室に置かれた。木箱に大きめの字で薬箱と墨書してある。

 あながち嘘というわけでもない。


 栄養補給食の時間に合わせて、虎蔵が奉行所から帰ってきた。

「う~、みたされる~」

 牛丼に生卵を割り入れ、行儀悪くかき混ぜ“環境にやさしい繰り返し使える木製スプーン”で口に運ぶ虎蔵から思わずため息とも感動ともつかない小さな声が漏れた。刑事さんと言えばついカツ丼を連想してしまうが、虎蔵は牛丼が好きだった。

 本日の補給メニューは、虎蔵が牛丼・生卵付き、ひじきとあげの煮つけ、柴漬けとカットフルーツ。

 幾絵が鮭のおにぎり、卵焼き、鶏レバー・こんにゃく・ささがき牛蒡の甘辛煮付け、カットフルーツにミルクプリン。

 友加がバラィティ・サンド、アイスミルクティー、カットフルーツにコーヒーゼリー。

 年齢、嗜好を考慮にいれた、カルシウム、鉄分、繊維質、ビタミン、無機質の摂取。サポートチームは真剣に三人の健康を考えてくれている。


 この時代にふさわしく静かに食事をいただくと、手早く片付け、念には念を入れてすべての容器をひとまとめに紙袋に入れ、享保側の目につかないように幾絵が押し入れに差し込む。幾絵が手を入れれば、そこは享保の押し入れではなく令和側の桂の事務室になる。

 三人とも公安編集の危機管理マニュアルをきちんと読んで、注意深く行動している。


 食後に各自湯飲みに白湯を注いだ。

「トラ、佐竹さんの御用で出てたそうだね」

「はい」

「何か言いにくいことでもあったかい」

「はあ、まあ」

「友加なら気にするんじゃないよ、どうせ一蓮托生さね」

「はい、では。友加さん、死人の話ですが大丈夫ですか」

 友加が黙って頷く。


「きのう掘割から仏さんがあがりましてね。それが、若いお女中なんです」

「若いお女中? 武家女が供もなしに外歩きなんぞしないだろう、身元はすぐわかったんだろうね」

「いえ、それが。届け出がないんです」

「昼まで待っても届け出がないということは」

「はい」

 それは、その女性には身寄りがなく気にする人もいないとか、他国から一時的に江戸に来ていて、まだ着いていないかもう立ち寄り先を出たとか、非常に珍しい状況にある可能性を示している。そうでなければ、事件性が非常に高いということだ。


「髪と装束はどうだったんだい」

「髪は髷を結っていたようです。上げた時は解けていて。

 着ているものがちょっと」

 虎蔵はJKを少し憚った。

「白い肌着で、小袖と細帯は着けていませんでした」

 幾絵は友加を気にしなかった。友加は刑事の妹、鑑識課長の娘だ。職業柄だれも家で仕事のことを口にしないが、家族の置かれている情況はある程度わかっているはずだ。

「着衣の乱れは」

「ありませんでした。凌辱の跡はないとのことです」

「そうかい。とすれば、寝間着のまま外に出たか、掘割に入る前に上着だけ脱いだか脱がされた、ということになるね」


「森田先生、お女中は妊娠していました」

 友加の顔色が白っぽくなった。ぐっと口を引き結んでいる。

「そうかい、それは困ったねぇ」

「はい」


 現代の検視手順が実行できれば、死因はすぐに明らかになる。覚悟の自殺か、事故か、他殺か。

 他殺ならば、単に掘割に落とされたのか、それとも暴行を受けて落とされたのか。その場合堀に落とされる前に死亡していたか、落とされた後に死亡したか。薬物使用の痕跡があるか、病気があったかどうか、怪我を負っているか、負っているならその傷は掘の外でついたのか、水中でか、生存中なのか、死亡後なのか。


 そして、それらの前後関係で大概は状況が明らかになる。そうすれば、それが他殺だった時、犯行時間が限定され、犯人も限定された範囲の人となる。

 この時代では、そこまでできない。腑分けとよばれる死後解剖すら難しい。


 医学的な補助手段がないから、死体の身元がわからない限り、調べる先がないようなものだ。岡っ引きが普段から集めている情報を頼りにする程度だ。それも死人が武家女性となればほとんどお手上げだ。

 夏の気候の中、似顔絵を描き、身体的特徴を控えた後、早々に埋葬されてしまうだろう。着ていたものも下着だけで髪紐や櫛もないとなれば、後になって問い合わせがあったとしても、身元を特定することすら難しい。


「仏さんを拝見させていただきまして。

 頸に締めた跡はありませんでしたが、爪が割れていました。苦しんでもがいたのだと思います」

「そうだね、押さえつけられて息をとめられたかねぇ」

「おそらくは。洗面器一杯の水があれば何とでもなりますから」

「そうだねぇ、水を飲んでいるかどうかわかればいいけどねぇ」

「そうですね。水死とは限りません」

「ああ、じれったいねぇ」

「はあ、森田先生がそう思われるのは無理もありません」


 沈痛な空気が場を支配する中、虎蔵は再び外に出て情報収集、いわゆる聞き込みを続けることにした。幾絵は難しい顔をしている。職業柄、本当は役に立てるのに何もできないことに苦しみを感じているのだろう。


「森田先生、これって警告ということはありませんか」

「え? ああ」

「寺院内に手出しできないから、見せしめということはないでしょうか」

「うーん、そこまでやるだろうかねぇ、考えすぎじゃないかい?」

「そうですね、確かに」


確かに洗面器一杯の水でも人を溺れさせることはできます。

ですが、現代ではこの手法は知れ渡っていて、捜査員が見れば、解剖以前に見当がつきます

もちろん、司法解剖がおこなわれます

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