自己愛しかない現代人
我が息子よ。自己愛しかないゴキブリから見た世界というものを想像してみなさい。自分以外のすべての他者にも自己愛しかなく、優れたものが栄えて繁栄し、劣ったものから滅ぼされて死んでいく。そこにおいて、優しい人が尊敬されることはない。優しさは少しも尊敬されず、むしろ弱さとして感じられ、親切を行なう者にはむしろ利用しやすい者として、悪意ばかりがそそがれる。そして、農耕によって都市が出現して以来、テクノロジーの発達による貨幣経済の拡大によって、現代人類には実際に、自己愛しかないゴキブリだけしかいなくなった。
自己愛しかない生き物同士において、「愛」という関係は存在しない。男達は性欲で女達を見るようになるし、女達はそんな性欲をいかに合理的に換金できるか追求するようになる。男達は女達の内面の美しさではなく外見の若さに性欲を刺激されて「かわいい」と言い、女達は男達の内面的な価値を見ずに経済力の多寡で階級づけるようになる。結婚は長期的な売春契約へと堕落するから、自己愛に矛盾した時点で婚姻関係は破棄される。結婚と出産は、新しい家族が生まれる現象だが、あくまで自己愛を優先する生き物においては、精神的な意味で新しい家族は生まれなくなる。男女ですら実は愛し合うことがなく根底で利用しあっているのだから、親という強者は子という弱者を利用して虐げる。男は命をなげうってまで妻の幸福を守らないし、女は命をなげうってまで子の幸福を守らない。ゴキブリの世界では親切は搾取されるだけだから、女が子の幸福を守っても子は母に感謝しないし、男が妻の幸福を守っても妻は夫に感謝しない。ただ、他人同士が性欲や金銭欲で結合し、世帯として同居している現実を「家族」と呼んでいるだけだ。その延長を、村や町、国家や人類と呼んでいるだけだ。
そのように、人間にとって人間が食い物でしかなくなり、情報として流通する「善」が強者が弱者を心理学的に威圧し騙すためのものでしかなくなったとき、何が起こるが想像してみなさい。幸運にも有利な立場を与えられた人々によって、テクノロジーという強力な道具を介して、不運にも不利な立場を与えられた人々は貪り食われていくだろう。非道を行なう人々は口元から血をこぼしながら、「善」の概念にもとづいて自業自得論を説き、努力をすれば、能力があれば幸福は得られたと言って環境格差を個人的資質にでっち上げ、反撃されない位置からマウントをとって楽しむようになるだろう。世界秩序はますます「法と正義」に染められていきながら、実は単に既得権益にとって不都合なものが違法とされ不正義とされるなかで、正義と正義ある法とは失われていく。それはあまりにも大きな力学、人類の運命であって、個人の才能や努力によって変えられるものではない。しかしまず、人間が共食いをする生き物であり、既存の社会が実は共食いに満ちたものとして成り立っている現実を目撃しなさい。
一方では、「ありがとうの気持ち」というものがあって、それより価値のあるものは存在しないよ。だって、それが生命進化の過程でなぜ生じてきたか想像してみなさい。飢えて死に瀕しているとき、食べ物をゆずってくれる人がいれば、「ありがとうの気持ち」が起こる。そうしてお礼に親切にして、相手からも感謝してもらえばうれしいと感じる。そうして互助が成立する。社会というのは、なにも利用しあうものとしてしか成立しないものではない。隣人の苦しみを自分自身の苦しみであるかのように感じるとき、相手の感覚を想像して自分の感覚として感じる「共感」が成立している。共感の範囲や強さは、「ありがとうの気持ち」で拡大する。あるいは、自分に怠慢があって他者からの恩義に報いきれなかったときには、「ごめんなさいの気持ち」が起こる。謝罪というものは、なにも責任を回避する口先の嘘としてしか成立しないものではない。そして、共感の結束が最も強い関係は家族であり、新しい命に対しては、「生まれてきてくれてありがとう」という感じがするし、家族は互いに、「いてくれてありがとう」と感じる。共感は自己愛を逸脱した現象であり、「愛」そのものだ。
愛するものが傷つけられることに対する防衛機能が、生き物には備わっている。傷つけば悲しんで癒すし、さらに奪われる危険を取り除くために怒りや憎しみの感情をもよおす。そのような愛と憎悪の両面性は、自己愛を逸脱した共感についても存在する。それは、「正義感」だと言える。だから例えば、隣村同士で互いの女子供を殺せば、「正義感」同士が衝突する。あるいは、共有できる価値、例えば欺瞞や偽善や拷問の否定について、人類全体で正義感を共有することもできる。憎悪が負の感情であるとか、違法行為が不正義だと呼ばれるのは、自己愛によって既得権益に擦り寄るための感情であって、実際には憎悪だけが正義を守る。今では人類には自己愛しかないが、歴史的には、存在した共感を防衛するため、「ありがとうの気持ち」の強い血族から順に挑戦して敗北していった。
今の時代にもし英雄が生まれても、人々はその善意に感動してともに武器をとり権力に立ち向かおうとは考えない。隣人に親切に振る舞ったぶんだけ、社会を知らない幼稚な馬鹿と見なされ、搾取され殺されて笑われるだけだ。自己愛しかないゴキブリが圧倒的大多数になった社会では、共感性こそが社会的価値であるという真理に到達できるほど賢い才能も、自己愛しかないゴキブリのふりをするのでなければ生き延びることができない。仮にどんな大金持ちに生まれたとしても、そんな世界の厳しさには違いがない。しかし、共感性こそが社会的な価値であってそれとその認知とが近代的に失われてきたという事実を知覚できる者は、自己愛しかないゴキブリではない。自己愛しかないゴキブリのふりをして百年間生きたとしても、それは自己愛しかないゴキブリではない。
我が息子よ。力に伴うのは責任だ。最も優秀な血筋を与えられたお前は、常に最も優秀であらねばならない。親切に生きて感謝されず搾取ばかりされても、驚く必要はないし、親切に生きることをやめる必要はない。自己愛しかないゴキブリと友人になることはできず、家族になることもまたできない。お前がすべての他者が友人や家族であるかのように英雄的に振る舞っても、生まれつきの出来損ないに共感性は発生しない。しかし、愛と正義のために生きるお前に真の孤独は訪れない。なぜなら、共感と結束によって、友人や家族は生まれながらに友人や家族だからだ。お前が味わう苦しみや屈辱のすべては、見知らぬ英雄によって理解されているし、遥か昔すでに共感され愛されている。人類はいつの日か、テクノロジーが孕む毒性に勝利するのでなければならない。その日までに犠牲になる戦士達の数は限りないが、金銭などではもちろん測れない真の名誉がそこに伴う。したがってお前は、現代に生まれてなお、正義を愛しなさい。