65 ウィリアム
ウィリアムはムカついていた。
あのカワカミとかいう臨時教師。
あの野郎、どうにも人を馬鹿にしたような目をしてる。
腰は低いしいかにも弱そうだし、一見するとこちらに媚びを売ってるようにさえ見受けられる。
しかし、違う。
俺には分かる。
あの"目"は、俺のことを馬鹿にしている。
ガキだと見下している。
ウィリアムは、カワカミのあの態度がなんだか気に食わなかった。
「しかしあのおっさん、傑作だったな」
校舎裏にある側溝に腰かけて。
子分のボイドが、ニタニタと笑った。
「調子に乗ってウィリアムに挑むからああなんだよ。あの痛がり方。今思い出しても笑えるぜ」
「あいつ、女子生徒の前だからイイトコ見せようとしたんだぜ。ロリコンだぜ、ロリコン」
もう一人の子分、キャリードが、キキキと笑い声を出した。
「でもよ、あの野郎、上手いこと逃げやがったよな。今度の授業のとき、きっちりと約束を守らせねーとな」
「そうだよ、そうだった。そういや、あいつ、腕相撲に負けたら、床に落ちたビスケットを食うって言ってたのによ」
ボイドとキャリードはくだらないことを言い合っている。
そういう問題じゃねえ、とウィリアムは思った。
あの野郎は、この俺様を見下していた。
庶民の癖に。
貴族のエリートであるこの俺を、蔑んでいた。
それが許せねぇ。
許せねぇんだ。
ウィリアムは吸いかけの煙草をぺっと吐き出した。
「取りあえず、あいつはきっちりとカタに嵌めねぇとな。気が収まらねぇ」
ウィリアムは顔をしかめて低い声を出した。
やっちまえよ、とキャリードが同調した。
「あー、いたいた。ホントにいた」
いきなり、背後から声がした。
振り返ると――カワカミがいた。
「全く、不良ってのはどうしてこう暗くてジメジメしたとこが好きなんだろうねぇ。精神がダンゴムシに似てるのかな?」
カワカミは周りに目を巡らしながら、ウィリアム達に近づいた。
なんだぁ? と、まずはボイドがいきり立った。
「おい、テメー。何の用だよ」
「ああ、ごめんね。ちょっと、ウィリアム君に用事があってさ」
「るせー。こっちはテメーに用はねーんだ」
「いやー、ごめんごめん。時間は取らせないからさ、ちょっと話を」
「良いとこに来たじゃねーか」
後ろからキャリードも加勢した。
「おい、おっさん。お前、ウィリアムとの約束忘れてねーよな? あいにく今は菓子を持ってねーからよ、ほら、こいつを舐めろ」
キャリードはそういうと、右足を突き出すように前に上げた。
「とりあえず約束を守れや。話はそれからだろ」
参ったなあ、とカワカミは頭を掻いた。
「俺はウィリアム君に話があるんだよねぇ」
カワカミはそう言うと、ウィリアムを見た。
「ねぇ、ウィリアム君。ちょっと、二人で話をしないかい?」
「なんだよ」
ウィリアムは顎を上げ、目を細めた。
「言ってみろ。一体、何の話だ」
「キミの話だよ」
カワカミは口の端を上げた。
「ウィリアム君。キミ、退屈なんだろ? どいつもこいつもくだらねえから、退屈でしょうがない。そんな風に見えるンだよねぇ」
ウィリアムは無言だった。
こいつ。
一体、何が言いたい。
「だからさ、俺が教えてあげようと思ってさ」
「……教える、だと?」
「そう。世の中には、キミよりもっともっと強い人間がいるってことを。キミは、外の世界に出たらクソ雑魚だってことを、ね」
ウィリアムはくくと笑った。
「は。言うじゃねぇか、家畜野郎。じゃー聞くけどよ。その"強い人間"ってのは、どこにいるんだ? 俺はよぉ、生まれてこのかた、俺より強ぇやつに会ったことがねぇんだよ」
「ま、たちまち、俺かな」
カワカミはにこりと笑った。
これだ。
この顔だ。
この顔つきが――
異常にムカつくのだ。
「……ボイド。キャリード。お前ら、向こうに行っとけ」
と、ウィリアムは言った。
「それから当分、ここに人を近づけるな。何があっても、な」
ウィリアムは上着を脱ぎ。
指をポキポキと鳴らした。
∇
ウィリアムの怒りは沸点を迎えていた。
庶民のおっさんが、この俺に楯突くだけでも死ぬほどムカつくのに。
こいつはあろうことか。
本気で俺を愚弄している。
頭に血が上って、目の前がゆらゆらと揺れた。
「おっさん、テメー、本当に喧嘩で俺に勝てると思ってんのか」
ウィリアムはそう凄んだ。
カワカミはうん、と頷いた。
「さっきも言ったろ? ウィリアム君。キミは雑魚だって」
「は。口だけ野郎が。マジでぶっ殺してやる」
「ハッタリ野郎はキミの方だ」
急に真顔に戻り、カワカミは言った。
ウィリアムは眉根を寄せた。
「なんだと?」
「ウィリアム君。俺はさ、キミが馬鹿じゃないと思ってる。だから、教えてあげる。キミがどれだけ"弱いか"と、その理由を」
カワカミは肩を竦めた。
「いいかい。世の中の"争い"ってのは腕っぷしじゃない。身分でもない。どちらがより狂ってるか、だ。頭の線がブチギレてる方が勝つんだよ」
カワカミはうっすらと微笑みながら。
ウィリアムに近づいた。
その時。
ウィリアムは異変を感じていた。
カワカミの雰囲気が――
変わった。
「例えば、キミ。人を殺したことあるかい?」
と、カワカミは言った。
ゆらゆらと揺れながら、こちらに近づいて来る。
「ひ、人を……?」
ウィリアムはごくりと喉を鳴らした。
そう、とカワカミは頷いた。
そして懐から、瑪瑙のついた短刀を取り出した。
「例えば、キミ。こいつで俺を殺せるかい?」
そう言って。
短刀をウィリアムの方に投げた。
「キミは俺にムカついているんだろう? 俺を殺しても、親が揉み消してくれるんだろう? なら、殺せば良い。今。ここで。その短刀を使って俺の首をかき斬ればいい。そして死体を山の中に埋めればそれで仕舞いだ」
カワカミはウィリアムの目の前まで来た。
ウィリアムはごくりと喉を鳴らした。
背中に、冷たい汗が滲んだ。
校舎裏に、沈黙が落ちた。
遠くで生徒たちの声が聞こえる。
汗が止まらない。
寒いのか。
それとも暑いのか。
自分でも分からない。
とにかく、震えが止まらなかった。
やがて。
殺せないのか? と、カワカミは言った。
「俺は殺せるよ」
カワカミはにこりと笑った。
「"怒り"なんて感情を利用する必要はない。俺はキミを殺せる。キミがどれだけ強かろうが。キミの親がどれだけ偉かろうが。貴族の権力がどれだけ絶対的だろうが。そんなものは関係ない。俺は俺が殺したいと思えば、今すぐに――」
キミを殺せる、とカワカミは言って、ウィリアムの瞳を覗き込んだ。
ウィリアムは、その時のカワカミの"目"を一生忘れないだろうと思った。
それほどにカワカミの目が脳裏に焼き付いた。
何の色もない。
何の感情も無い。
怒りも。
恨みも。
憎しみもない。
ただ純粋な殺意だけが、その奥に潜んでいる。
畏しい瞳。
――殺される、と思った。
ウィリアムはからん、と持っていた短刀を地面に落とした。
それから、彼は押されたわけでもないのによろよろと後退し、そのまま、すとんと尻餅をついた。
身体中から汗が噴き出し、震えが止まらなかった。
「なんてね」
カワカミは言い、落ちていた短刀を拾った。
それから、ウィリアムを見下ろした。
「ちょっと冗談が過ぎたかな。けど、安心したよ。やっぱりキミは、馬鹿じゃない」
立てるかい? と、カワカミが笑顔で手を差し出す。
ウィリアムはその手を見つめながら、ごくりと唾を呑み込んだ。
嘘じゃない、と思った。
こいつは理由さえあれば、どんな人間だろうと殺す。
人間的な躊躇いや戸惑いなどなく、機械的に、事務的に、殺人が出来る。
そういう男だ。
だから俺は今、命拾いをしたのだ。
ウィリアムは、心からそう思った。
俺が今、もしも間違った行動をとっていたら。
カワカミに"理由"を与えていたら。
俺は、死んでいた。
「……一人で立てる」
ウィリアムはカワカミの手を退けて立ち上がった。
カワカミは「そっか」と言い、にこりと微笑んだ。
ウィリアムからは、その顔がバケモノに見えた。




