56 恋心
「こんにちは」
俺が声をかけると、ちょうど物干しロープに洗濯物を干していたその女性は、シーツを広げたまま首だけこちらの方に振り向いた。
それから一瞬だけ怪訝そうに眉をひそめると、持っていたシーツにフックをかけてから、ようやく身体を俺の方へと向けた。
「誰だい、あんた」
女性は怪訝そうに俺を見た。
「カワカミというものです」
俺は胸に手を当てて、ぺこりと頭を下げた。
「覚えてませんかね。半月ほど前、一度、"首ハネヴィーナス"事件のことを聞きにやってきたんですが」
女性は首をひねり、覚えてないね、と少し笑った。
「この一ヶ月、警備隊やら新聞屋やら、色んな人間にその事件について、話を聞かれたからね。悪いけど、いちいち覚えてない」
「そうですか」
俺はにこりと笑った。
「今日は、もう礼拝堂――イエローチャペルの方には行かれたんですか、アヴァ=リーベルトさん」
俺が聞くと、その女性――アヴァは少し眉を寄せた。
「どうして私がチャペルに行ってること、知ってるんだい」
「ああ、それは、前に取材をしたときに仰っていたんで」
「覚えてないね」
「仰ったんです」
俺はにこりと笑った。
そして懐からメモ帳を取り出し、それを読んだ。
「織物工場勤務のアヴァ=リーベルトさん。年齢は23歳。熱心なマグノリア教信者で、毎日の礼拝をかかさない。2人の子持ちで、旦那さんとは1年前に死別。そうですよね?」
「そうだよ」
アヴァは腕を組み。
口を尖らせて、不機嫌そうに俺から目を逸らした。
美しい亜麻色の髪の毛に、大きな胸。
くびれた腰に、長い足。
切れ長で美しい両目。
シャープな輪郭。
アヴァ=リーベルトはかなりの美人だ。
彼女は前にジラールと第12地区を捜査したとき。
俺が一番、容疑者として近いと感じていた女性だった。
「なんなんだい」
アヴァは不機嫌そうに言った。
「今さらあんた、何を聞きに来たんだい。男娼を狙った殺人事件は終わったらしいじゃないか。もう、事件は終わっちまったんだろう」
「そのようですね」
「なら、もう良いじゃないか」
アヴァは足元にあった籐の籠から別のシーツを掴み上げ、それを干し始めた。
「その話はもうしたくないんだよ。ったく、せっかく薄汚い夜鷹どもがいなくなったと思ったのに、あいつら、事件が終わったらすぐに商売を再開してる。クリフ神父もいなくなったし、もうすっかり元通りさ。あんな穢れた人間が溢れたら、この世界は終わりだよ」
あーいやだいやだ、とアヴァは顔をしかめた。
すいませんねぇ、と俺は頭を下げた。
「どうしても1つだけ、お聞きしたいことがありまして」
「しょうがないね。早く言いな」
アヴァは忙しく手を動かしながら言った。
俺はばたりとメモ帳を閉じた。
「アヴァさん。あなた、毎日、イエローチャペルへ礼拝に行ってましたよね」
「そうだよ。今も通ってる」
「その時、ガロワという男と知り合いませんでしたか」
「ガロワ? 知らないね」
「イエローチャペルの前で人形を使った芸をしていた男です」
「ああ、あの人か。あの人なら知ってる」
アヴァは洗濯物を干す手を止め、俺の方を見た。
「そういや、彼、見なくなったね。もう長いこと、ずっとあそこにいたのに」
「ええ。どうやら遠くに行ったみたいで」
「そりゃあ残念だね」
「残念ですか」
「うん。何度か話をしたことがあったからさ」
「何の話をしましたか」
「……どうしてそんなことを聞くんだい」
「すいません、ちょっと」
俺が眉を下げてお願いすると、アヴァは、そうだねぇと考える素振りを見せた。
「単なる世間話さ。たしか、あの辺の治安についてよく話をしたね。私はね、男の立ちんぼが好きじゃないんだ。あいつらは神様の教えに背いている異端者だ。うちの旦那も、ああいう不徳者がいるから死んじまったんだ。だから、あの辺りで商売をしてる奴らが大嫌いだった。イエローチャペルは神聖な場所。そこで売春をするなんて、どうしても許せなくってね。あんまり腹が立つから、ここに来る気も失せてくる、なんてそんな愚痴をよくこぼしてた」
「ガロワは何か言ってましたか」
「別に。あまり喋らない男だったからね。いつも私が一方的に愚痴ってた。でも、そう言えば一度だけ、珍しく向こうから話し掛けてきたことがあったね」
「ガロワの方から、ですか」
「うん」
「その時、彼はなんて」
「花は好きですか、と」
「花?」
「うん。そう言って、どこかで摘んできた花の束をくれた」
当時のことを思い出したのか、アヴァはちょっと笑った。
「なんだか少し恥ずかしそうにしてたね。ふふ。暗い男だったけど、可愛いところもあったかな」
そうですか、と俺は言って。
改めて、アヴァを見た。
そして、やはりそうだと思った。
彼女は、アオイに似ている。
そっくりという訳ではない。
髪の色も目の色も違う。
でも、どこか似ていた。
目や鼻の造作など全体的な雰囲気が、なんとなく。
「ありがとうございました」
俺はそう言って、頭を下げた。
「もういいのかい」
「はい」
「それじゃ、もしもガロワに会うことがあったら、よろしく伝えといて」
「分かりました」
俺はにこりと微笑んで、踵を返した。
歩きながら、ガロワのことを考えた。
ずっと一人きりで人形のためだけに生きてきた男。
人形と暮らし続けた男。
彼はアヴァに花をプレゼントしたとき、何を想っていたのか。
"人間"というものを知らない孤独な男は、何を決断したのか。
「恋とは状態であり、愛とは行動である、か」
俺は何かで読んだ一説を思い出し、呟いた。
ふと、空を見上げた。
家と家との間にはたくさんの洗濯ロープがかけられており、等間隔に干された無数のシャツやシーツが風にはためいていた。
その向こう。
晴れ渡る蒼穹には、雲一つ浮かんでいなかった。




