55 契約
「新しい契約主になってください、か。まいったね。そいつは、はあ、どうしましょうか」
カワカミはそのように一人ごちると、しばらく考え込んだ。
彼がアオイの提案の返事をするまでの間。
静寂の中。
アオイの運動機能は著しく低下し、ところどころ不具合を起こしていた。
カワカミ様は果たして、どのような返事をするのか。
私のことを嫌がっているのではないか。
それを考えると、彼女の目の前はゆらゆらと揺れ、身体の動きが鈍った。
胸がドキドキした。
自分はなにか、とんでもないことを言い出したのではないかと心配になった。
「……すいません。もしかして、場違いな無礼を働きましたでしょうか。私は、人間の社交というものがよくわかっておらず」
「ああいや、そういうことじゃなくて」
カワカミは苦笑した。
「俺としては、まあその、提案自体は、そんなに悪くない申し出だと思ってるンすけどね。ただ、なんつーか、"魂の契約"とかそういうのは、なンかちょっと違うんじゃねーかなって――」
と、そこまでカワカミが喋ったとき。
部屋の奥から「ガシャーン!」という、陶器が盛大に割れるような音がした。
「どうかしましたかー?」
カワカミが首を伸ばして声をかけると、奥からエプロンを付けた男――たしか、パルテノという名だったか――がバタバタと小走りで現れた。
「も、申し訳ないですね。少し、マチルダ様がお暴れに」
「あらら。まだご機嫌ナナメですか。しょうがないなあ」
カワカミは頭を掻きながら、はあ、と息を吐いた。
しかし、その瞬間。
カワカミははたと、何やら思い付いたような顔つきになった。
「そうだ、パルテノさん」
カワカミは言った。
「ちょっと、マチルダさんを連れてきてもらえますか」
「マチルダ様を?」
「はい」
「ここへ呼んでも、良いんですか?」
「はい」
カワカミは、アオイの方を見ると、少し嬉しそうににこりと笑った。
∇
カワカミはちょっと待ってくださいねと言った。
だからアオイは待った。
待つのは得意だった。
カワカミからの指示ならいくらでも待てる気がした。
何時間でも。
何日でも。
何年でも。
「あ、そうだ」
何かを思い出したように、カワカミがアオイの近くまでやってきた。
それから、瑪瑙のついた短刀を取り出し、彼女の両腕を縛り付けていた拘束具を切り落とした。
「……よろしいのですか」
と、アオイは問うた。
「このようなことを勝手にしては、先程の御方に叱られるのでは」
「叱られるのはいつものことスから」
カワカミは苦笑した。
「それに、こんな格好のままマチルダさんにアオイちゃんを紹介したら、マチルダさんに殺されちゃうから」
カワカミは冗談ぽく言って、自分でへへと笑った。
アオイは「ありがとうございます」と言った。
そして、首を傾げて、
「あの」
「はい?」
「何故、私が拘束具をつけていたら、そのマチルダという御方がカワカミ様を殺すのでしょうか」
「そりゃ、マチルダさんはアオイちゃんのことが好きだから。あんな粗末な扱いしてたらぶちギレちゃいます」
「私のことが……好き?」
「はい。あの人、なんかキミのこと、大好きなんスよね」
カワカミは肩をすくめた。
アオイは考えた。
好き。
好きとはなんだろうか。
何故、私が好かれているのだろうか。
「んだよー、カワカミよー、テメーよー」
と、その時。
店の奥から、小さな女の子が不機嫌そうに歩いてきた。
彼女が。
マチルダ。
見覚えがあった。
あの夜。
私を壊した少女。
「言っとくけどよー、あたしはまだ拗ねてるぞー。繊細な乙女心傷心祭り、絶賛開催中だぞー。どんなうめーチョコだろうが、どんなキュートな人形だろーが、あたしの乙女心は動かねー……ぞ……?」
そこで。
マチルダははたと、アオイの方を見た。
そしてアオイの存在に、気付いた。
「な……んだ? お、お前……」
マチルダは目を大きく開いて。
両手を突き出して、ヨロヨロと、アオイの方にちかづいた。
そして、アオイがアオイであることを確信すると――
「なんだよ! お前! あんときのトワイライト人形じゃねーか! 生きてたんか! 生きとったんかワレ!」
そう叫んで、アオイの胸に飛び込んだ。
アオイは慌てて両手を広げて、マチルダを抱き止めた。
「おい! カワカミ! どういうことこれ!? 夢か!? 夢なんこれ!?」
「夢じゃないです」
「アオイが生きてる! 生きてるんだけど!」
「はい。生きてました」
「なになに!? じゃードッキリ!? これドッキリ企画!? どっからドッキリ!? こないだあたしがカワカミの布団でおねしょしたとこから!? それをこっそり干したとこから!? あれもドッキリ!?」
「ドッキリでもないです。つか人の布団で何してんスか」
カワカミは頭を掻きながら言った。
「んでね、マチルダさん。俺、ちょっと考えたんですけどね。彼女を、ここで雇おうかなと考えてまして」
「マジ!?」
マチルダはすっかり元気になって。
アオイの腕の中で、やったー! と叫び声を上げた。
「カワカミ様。それでは」
アオイはカワカミを見た。
カワカミはうんと大きく頷いた。
「アオイちゃんの言い分は分かったよ。オーケーだ。俺はキミと"契約"する」
「ほ、本当ですか」
「うん。ただし」
カワカミは指を一本、立てた。
「それは"魂の契約"なんかじゃなくて」
「魂の契約では……ない?」
そう、とカワカミは頷いた。
それから言った。
「魂とかなんとか、そんな大袈裟なもんじゃなくて、もっと普通の契約。ただの雇用契約。俺とアオイちゃん、お互いが平等で対等な権利を保証するための、労使協定契約だ」
「雇用……契約?」
「そ。つまり俺は今日から、キミの雇い主ってことになる」
それでもいいかな? とカワカミは聞いた。
「ああ、ドリトルミのおっさんのことなら大丈夫。あの人、俺達にたんまりツケがあるからさ。今回はギャラの代わりに、アオイちゃん、キミの身元引受人にさせてもらう」
カワカミはそういうと。
親指を立てて、口の端を上げた。
少し、頭で情報を処理するのに時間がかかった。
やはり自分は鈍っているようだと、彼女は思った。
しかしこの感情は、なんとなく理解出来た。
こういうとき。
きっと、人間は「嬉しい」というのだろうと、ぼんやり考えた。
「アオイ! お前、ここで働くんか!」
マチルダが、目をキラキラさせながら聞いてくる。
アオイは「はい」と頷いた。
そして。
「働きます」
と、答えた。
「よっしゃー!」
マチルダの歓喜の声が、店中に響き渡った。
パルテノがうんうんと頷いている。
クルッカはマジかよと眉を寄せて少し引いている。
そしてアオイは。
彼女自身は気付いていなかったが。
とても嬉しそうに。
微笑んでいた。
 




