35 神父
イエローチャペルに人気はほとんど無かった。
陽が落ちて辺りを蒼い闇が包み始めている。
俺とジラールは2対の洋燈が飾られたエントランスをくぐり、中へと向かった。
チャペルの中は驚くほど綺麗に掃除が行き届いていた。
第12地区のこれまでの往来からは想像も出来ないほどに塵一つ落ちていない。
長椅子も整然と設えてあり、祭壇も厳かに飾られてある。
教会は清潔で神聖で、そして静かな場所だった。
「ジラールではないか」
キョロキョロと辺りを見回していると、背後から声をかけられた。
振り向くと、少し恰幅の良い、司祭服に身を包んだ老人がいた。
「クリフ神父」
と、ジラールは少し背を伸ばして言った。
「久しぶりっスね」
「元気にしていたか。最近は礼拝に来ぬようだが」
「すいません。色々と忙しくて」
ジラールはへへと頭を掻いた。
「それで、そちらの方は」
司祭服の老人――クリフは鼻眼鏡をくいと上げながら、俺を見た。
「第7地区で新聞屋をやっているカワカミと申します」
俺はぺこりと頭を下げた。
「すいませんね。もう礼拝の時間は過ぎていますか」
「祈りに時間は関係ありません。どうぞ、お祈りを」
俺はジラールと並んで、昔ドリトルミから聞いたやり方を思い出して、それらしく拝を済ませた。
それから、改めてステンドグラスの手入れをしていたクリフの方へと向いた。
「あの、クリフ神父」
と、俺は声をかけた。
「実は、ちょっと今日は神父に用がありましてね。お時間はとらせませんので、少しだけお話を聞かせてもらえますか」
神父は口の端で僅かに笑った。
「だろうと思ってましたよ。ジラールがわざわざやってくるなんてね。目的が礼拝ではないことは、なんとなく」
「すいませんね。恐らく、もう何度も聞かれていることかとは思うんですが」
「構いません。斯様な恐ろしい事件がありましたからね。神に仕える身とはいえ、私も一人の人間。社会の安定のためなら協力は厭いません」
ありがとうございます、と俺はにこりと微笑んだ。
「では早速なんですけどね。神父様は今回の犯人を、または犯行を、目撃されましたか」
「いいえ。直接この目で見た、ということは御座いません」
「直接はない、というのは」
「悲鳴のようなものは何度か聞きました。急いで現場に駆けつけたんですが――既に時遅し、無惨な状況が広がっておりました」
「なるほど。では、何故この界隈が殺人の現場に選ばれていると思いますか」
「分かりません」
「被害者が男娼に限られていることに心当たりは」
「それも皆目検討はつきません」
クリフは目を伏せた。
「マグノリア教において、同性愛は禁忌ですよね。当然、売春も」
俺は思いきって踏み込んだ質問をした。
クリフは目を逸らさず、ええ、と頷いた。
「そのことと、今回の事件。何かしらの因果があるとお考えですか」
クリフはやや顎を引き、じろりと俺を見た。
「……それはどういう意味ですかな」
「つまりその、なんと言いますか」
俺は目線を泳がせながら頬を掻き、言葉を探した。
ここからはかなりデリケートな話だ。
さすがの俺も、慎重にならざるを得ない。
「つまり、敬虔なマグノリア教の信徒が暴走しているのではないか、と、そう言いたいのですかな」
俺が言いにくそうにしていると、クリフ神父の方から口を開いた。
ちょっとホッとした。
「ええ、まあ、そんな感じですかね」
と、俺は言った。
「教会の近くで売春が行われていたら、熱心な信者は赦せないと感じるのではと、それは殺人の動機になり得るのではと、いやこれはまったき若輩の浅慮浅知恵で、本当に申し訳ないんですけど、そのように考えてしまったわけで」
「あり得ない、とは言いきれません」
神父は少し残念そうに目を伏せた。
「信仰というのは時に暴発してしまうものです。殉教の精神の間違った発露だと私は解釈しております。信心の深い者ほどそのような傾向にある。だからこそ神に支える身である私は、常に自分を律し戒めております。しかし、私個人としては、信者たちがこのような凶行に走っているなどということは、絶対にないと信じております」
クリフは目を上げ、真っ直ぐに俺を見た。
「まず、世の中には多くの宗教がある。全ての人間がマグノリア教に仕えているわけではない。教えというものは自ら悟るもの。決して強いてはいけない。そして、仮にそのような考えを持てなかったとしても、人間の罪を裁くのは神自身であるべきです。人間が神の意志を汲んでそれを野放図に代行をするなどと、烏滸がましく不遜な行為だ。そのことは、マグノリア教の信徒なら全員が分かっているはず」
なるほど、と俺は頷いた。
さすがはこんなスラムの端で教会をやってる神父様だ。
かなり頭が柔らかい。
「では、神父様御自身は、この教会の近くで売春が行われていることに関してはどう感じていらっしゃいますか」
「と、言いますと」
「ここはあなたの教会です。あなたの愛するこの神聖な場所の近くで売春が行われているのに、あなたは彼らを排斥しようとはしなかった」
「当然でしょう。彼らは人間だ。どのような間違いを犯そうとも神の御子で、愛される資格があるのです。人間は間違いを起こすものですから。それを改心させるのが私の仕事。道を外れたからといって排斥し、排除するなどととんでもないことだ。それでは何の解決にもならない」
「なるほど。素晴らしい考え方だ」
俺は短く数回、頷いた。
それからにこりと微笑み、
「今日はありがとうございました」
と、手を差し出した。
クリフ神父は穏やかに微笑み返し、その手を握り返した。
「もう良いのですかな。私の方はまだ時間はありますが」
「ええ、十分です。本日はお手数をおかけしました」
俺は踵を返して歩きだした。
そして数歩進んだところで立ち止まり、半身だけ振り返ってから、ああ、最後にもう一つ、と人差し指を立てた。
「クリフ神父。あなた、犯人に――つまりは首ハネのヴィーナスに、心当たりはありますか」
クリフは目を細め、俺を値踏みするように見つめた。
それから少しだけ間を開けて、「ありませんね」と答えた。
 




