30 姉
「ごめんください」
勘定台で帳簿をつけていると店の扉が開いて、とんでもなく豪奢なドレスを着た貴婦人が入ってきた。
「ああ、いらっしゃ――」
帳簿から目を上げて彼女を見たとき、俺は思わずペンを落とした。
派手なファーのついたロイヤルアスコットの帽子を被り、締まったガウンと膨らんだペティコートという流行りのロココ服に身を包んだ、典型的な貴族の女性。
マリアナだった。
「マリアナさんじゃないですか。どうしたんですか、突然」
台を回ってからマリアナの方へと歩み寄ると、彼女は少し神妙に目を伏せたあと、ぺこりと頭を下げた。
「カワカミさん。その節はお世話になりました」
「な、なんですかいきなり。頭を上げてくださいよ」
以前とまるで様子の違うマリアナに、俺は慌てた。
あれから。
俺は仕事を終えると、葬儀だのなんだのでスクワード家がドタバタしていることに乗じて、屋敷から姿を消した。
マリアナにもエマにも挨拶をしなかった。
だからちょっとした気まずさもあった。
「つか、よくここが分かりましたね。割りと秘密にしてるんスけど」
俺は話題を変えて、努めて明るく言った。
マリアナは少し悲しげに微笑んだ。
それから「クルッカと名乗る御方からお聞きしました」と応えた。
「クルッカが?」
「ええ。今回の顛末を、すべて。恥ずかしながら、私は何も知りませんでした。ですからこうして、御礼を言いに」
「んー……まあ、俺は頼まれてやっただけなんスけど」
俺は肩を竦めた。
ったく、クルッカの野郎め。
少しでもお目こぼしをありつこうという魂胆が見え見えだ。
「私。本日はスクワード家の長女として――いいえ、フランシーヌとシャーロットの姉として参りました」
居住まいを正し、マリアナは改めて言った。
いつものホンワカした表情ではなく、キリとした真剣な眼差し。
この人、こんな表情出来るんだ。
なんだか少し緊張して、なんと返して良いか分からず、俺は「は、はあ」と間抜けな声を出した。
「姉妹を代表して申し上げます。カワカミさん。フランシーヌの無念を晴らしていただき、感謝いたします」
マリアナの瞳は潤んでいた。
「私は何も出来ませんでした。長姉なのに、妹たちを守るべきだったのに、姉妹の中で最も臆病者でした。フランシーヌが苦しんでることも、シャーロットが悩んでいることも、なんとなく分かっていたのに。屋敷の中で起こっていた恐ろしいことも、その犯人も、きっと、本気で知ろうとすれば知れたはずなのに。私は恐ろしくて恐ろしくて、自らの殻に閉じ籠ってしまいました。目を瞑り、耳を塞ぎ、ひたすら人形集めに夢中になって、知りたくない現実から逃避し続けておりました。今さらそんな言い訳なんてとお笑いになるでしょうけれども、せめてどうしても、あなたには御礼を申し上げたかったのです」
ありがとうございました。
マリアナはそう言うと、もう一度、今度は深く頭を下げた。
参ったな、と俺は頬をほりほりと掻いた。
こういう空気は苦手なのだ。
こんなときに限って、パルテノは買い出しに出ている。
おっさんがいたら、年の功でなんとか場を和ませてくれたかもしれないのに。
「シャーロットさんは大丈夫ですか」
と、俺は話題を変えた。
「あの人のこと、ずっと気になっていたんですよね。きっと、一番キツかっただろうから」
マリアナは目を少し細めた。
それから小さな声で「お優しいですね」と一人ごちるように言った。
「シャーロットは修道院に入りました。自ら望んだのです。これからは神のために生きることになるでしょう」
「そうですか」
俺は口の端を上げて、なんとなしに外を見た。
それもいいかもしれないと思った。
彼女は、この汚れた俗世で生きるにはあまりに無垢過ぎる。
「つきましては」
マリアナはそういうと、後ろで控えていた侍女に目顔で合図を出した。
侍女は香箱くらいの大きさの豪奢な宝石箱を取り出し、こちらに差し出した。
「謝礼として、少しばかりですが」
俺はそれを受け取り、しばし眺めた。
ずしりと重い。
うーむ。
こいつをしかる場所で売れば、3年は働かずとも豪遊出来そうだ。
「気持ちだけもらっときます」
俺は苦笑しながら、それを返した。
マリアナは少し目を見開いた。
「ど、どうしてでございますか。やはり、足りませんでしたか。クルッカさんにお聞きしました。カワカミさんの"御仕事"は本来、とても高価だと」
「いえ」
俺は短く首を振った。
「金額の問題じゃないんスよね」
「では何故」
「いえね、報酬はもうもらってるんですよ。すっかり食べてしまったんスけど」
俺はそう言うと、腹をポンポンと叩いた。
「今回の仕事の本当の依頼人から、正式にね。だからそれを受け取ったら、ギャラを二重に受け取ったことになっちまうんで」
「では――では、仕事の依頼人として、ではなく、妹の無念を晴らしてくれた御礼として受け取ってもらえませんか。これでは、私の気が済みません」
「それなら」
俺はマリアナを遮った。
「それなら、そいつは貧民街にいるラースという少年にあげてくれませんか」
「……ラース?」
「ミスティさんの弟です。今回、俺たちに"仕事"を依頼してきたのは、実は彼でして」
「ミスティの弟――」
マリアナはしばし言葉を失った。
「今回アランを討つことが出来たのは、ラースのお陰だ。あの子の怒りが、あの子の哀しみが、あの子の怨みが、俺達を動かした」
マリアナは言葉もなく俯いた。
それから目を瞑り、何事か呟いた。
よく聞こえなかったが、ごめんねと唇が動いたように見えた。
「……分かりました。必ず、渡します」
「悪いですけど、お願いします」
俺はひょいと頭を下げた。
それから「ああそうだ」と言いながら台下からガサゴソと麻袋を取り出した。
「実はね、また良い人形が手に入りまして」
袋から中身を取り出そうとしていると、「ああ、もう良いのです」とマリアナは言った。
「私、もう人形収集は止めにしたんです。もう、すべてを処分しようかと考えていて」
「え?」
「いえ、人形は今でも愛しているんですけれど、一体一体がまるで実子のように愛おしいんですけれど、何と言いましょうか――私が私のまま変わらず生きていくのは、なんだか妹や使用人たちに申し訳なくて」
マリアナは小さく吐息を吐いて、首を振った。
「別に良いんじゃないですかねぇ」
俺はわざと彼女から目線を外して言った。
「いや、無礼非礼な節介は承知なんですが、俺はどうも余計な軽口が性分なもので、こいつはとんまの戯れ言だと思って勘弁してくださいね」
そう言い訳をおいて、続けた。
「確かにフランシーヌさんはとても残念な結果になった。残念なことをしでかした。しかし、そのこととあなたの生活を紐付けて考えてはいけないと、俺は思いますけどね。あなたは加害者じゃない。悪党じゃあねえんだ。それなのに、一生、こうすべきだったああしなくてはならなかったと後悔に繋がれて生きていくのはとても酷なこと」
「……カワカミさん」
「大事なのは彼女たちを忘れないことで、その上で、生きてるもンは生きてるもンとして、即ちこの場合はマリアナさんがマリアナさんらしくってことなんですけど、とにかくそのまんまを生きることじゃないですかね。あなたが、自分の人生をきちんと生きることじゃないですかね」
今日、マリアナを一目見たときから感じていた。
彼女の気丈さは立派で大したものだけど。
まるで乾いた枝木のように危ういと。
これでは早晩、堪えきれず折れてしまうだろうと。
俺の経験上。
人間ってのは、そんなに簡単には強くなれない。
まあこれは、と俺はすっとぼけるように言った。
「まあ、これはいやらしい話でね、その方が小売をやっている"人形屋"としても助かるってぇのもあるんですけど。同じ人形愛好者のマチルダさんのためにも、出来れば、趣味は続けて欲しいっすねぇ」
マリアナはしばらく黙っていたが、やがて目を伏せ、ハンカチで目元を拭いた。
室内にわずかな時間、沈黙が落ちた。
強い風が吹いたのか、安普請の扉がガタガタと鳴った。
往来では、今日も商売人たちが忙しなく往き来している。
「カワカミー」
と、その時、マチルダの声が聞こえてきた。
「カワカミカワカミー、ちょっとあたしのチョコクリームサンドが無いんだけどー? いやまー昨日あたしが自分で食ったから無いんだけど、"食ったから無い"とかあたし的にあり得ないんだけどー? だから今すぐに食べたいからちょっとカワカミ買ってきて――」
なんか死ぬほど理不尽なことを言いながら、奥からマチルダが出てきた。
「あ! マリアナやんけ!」
そして彼女はマリアナに気付くと、両手を広げて「マリアナー」と言いながら彼女に駆け寄った。
「おい! マリアナ! どうしたんだお前! もしかして、今日はなんか良いの手に入ったのか!?」
マチルダはマリアナのスカートをぐいぐいと引っ張った。
「あ、あの、マチルダちゃん、実はその」
「なあなあ! わざわざあたしんちに来たってことは、スゲー可愛いやつ手に入れたんだろ!? 見に行って良い? なあ、またお前んちに、見に行って良い?」
マチルダはマリアナの言うことなど聞かずに、足をトントンと踏み鳴らしながら、キラキラした目で彼女を見上げた。
「え、えと、あの、その」
マリアナはあたふたと慌てた。
そして、助けを求めるような目で俺を見た。
俺はちょっと笑いながら、「お願いします」と声には出さずに言った。
するとマリアナは少し考え、たっぷりと躊躇いがちに「……もちろん、いいですわよ」と言った。
「是非来てくださいまし。今度来るときは、マチルダちゃんがお漏らししちゃうくらいすごいコレクションを見せて差し上げます」
マチルダは只でさえ大きな目を、さらに大きく見開いた。
そして、楽しみと嬉しみで、足先からつむじにかけて、ぶるりと身体を震わせた。
「まじかよー! あれ以上かよー! スゲー! 超スゲー!」
マチルダはやったーやったーとはしゃぎながら、その場でぴょんぴょんと跳び跳ねていた。
「カワカミさん」
マリアナは愛おしそうにマチルダを眺めながら、言った。
「あなたの言うとおりですわね。私は私らしく生きる。そうしないとこの先、強く正しく生きていけない。あなたたちを見ていると、そんな気がしますわ」
俺は勘定台に肘をついて苦笑しながら、「それはよかった」と言った。
「きっと――きっと、シャーロットもそうだったんですわね。だから、あの子は修道女になった」
「かもしれないっすね。ま、俺達はシャーロットさんほど正しくはないスけど」
マリアナはくすりと笑った。
それから「それでは」と今度は俺の方に目を移した。
「カワカミさん。それでは早速、私が今、一番欲しいものを用意してくださるかしら」
「ええ、もちろん。どんなレアものでも用意させていただきます」
俺は大きく頷いた。
するとマリアナは優雅に微笑みながら、こう言った。
「私、是非ともこのマチルダちゃんが欲し――」
「だからそれは駄目だっつってんだろ」
俺は先回りして、そう答えた。
 




