物語2・32
今、何言われたんだ私。
けつ、なんとかって言われたような気が。尻?
いやさすがにそれじゃないことは分かる。
これは私がちょっとふざけただけだ。
やっぱりはっきり聞こえた。
聞こえちゃってたから頭が無視できない。
結婚っつったよね。
今?
図書館で?
春画を横で読んでいた男が?
恋人ですらないのに?
ちょっとしんみりした雰囲気だったから誤魔化されそうになったけど、四つ前の会話文は生物の仕組み~で、その間になにがあったんだ。
私がちょっとその辺の記憶飛んでただけで他に重要な話をしてたのかもしれない……なわけない。
思考時間計三秒おいたのち、私は背中から椅子ごと倒れた。
バァァンッタァァァアアン。
我ながら凄い音だった。
「なっ、なんななななに言っちゃってんの」
床に頭打った。
足がもたついて、あわあわと慌てふためきながら立ち上がり、椅子をガタガタ正してヨロヨロと座り直す。
膝がカクカクして老婆みたいになっている。
心なしか顔もシワシワのヨボヨボになっている気がした。
ドクドク動悸が止まらない。擬音も止まらない。急激に老けて更年期に突入したみたいになってる。
「結婚!?」
「僕と結婚すれば誰もヘルに手出しはできないし、安全も保証できる。あの方の孫だと世間に公表された所ですでに僕の伴侶で貴族だ。公に堂々と会えるようにもできるだろう。こんなふうにこそこそ方法を調べる必要もない」
指折り数えながら解決できる問題を提示される。
「貴族が個人的に従事していい仕事は裁判院、騎士、魔導所、神殿、税関とか他にも探したら色々あるから。ハーレでの仕事もできるし悪くないんじゃないかな。僕は君が好きだし、君も僕を好きでいてくれるなら」
……あれ?
確かに悪くない話じゃない?
というか問題少しだけ解決じゃない?
「好きって……」
でもそう提案してくるロックマンにイラっとする私は、気難しくておかしな女なのだろうか。
遠くからイライラとモヤモヤが二人三脚でやってくる。
もちろん一瞬ドキっとしたけど、続いた言葉を受けて冷静になって考えてみれば、本気で聞ける話ではない。
なにより疑うのはその言動。
好き?
サァーっと動悸が鎮まって、ゆっくりふつふつ怒りが沸き上がってくる。
うつ向いて黙り込んだ私に、ヘル? と声がかかった。
「そ……そういうのが信じらんないって言ってるのよ!」
首を横に振って、机にダンッと拳を叩き置いた。
ロックマンは目を瞬かせて、驚いた様子で私を見ていた。
結婚発言が本気か冗談かは、この際どうでもいい。
こいつの長所とも言えるべき短所を本人が自覚しているのかどうかは疑わしいが、ここいらではっきりと言っておくべきなのかもしれない。
だがその前に一つ、確認すべきことがある。
「だってトレイズのことが好きなんじゃないの?」
「は?」
「命かけられるくらい好きなんじゃないの?」
「……どういう……思考回路に?」
虚を突かれたような顔に、そう言われるなんて微塵も思っていなかったであろうことが伝わってくる。
これは本当に、ずっと思っていたことだ。
ヘルドランさんが四六時中くっついててニケに嫉妬しないのか? と言われて大きな嫉妬もなくモヤっとだけで終わっていたのも、船で「あれは本心からだった」と言われても、なんとなく納得できずひけらかされた好意を受け入れられなかったのは、このモヤモヤがいつまでもずっと引っ掛かっていたからだった。
でもトレイズのことをロックマンが本気で好きなのだとは思っていない。トレイズには悪いが。
もっと他の別の部分だ。
自分の発した言葉に、私は口をすぼめて顔を歪める。
「魔物が言ってたもの。あれから月に一日は魔力がなくなって魔物みたいな状態になってるって。今は治って大丈夫なんだろうけど」
まさに命懸けだ。
「寿命が縮んでいるって聞かされて、人がどんな気持ちになったか考えたことある?」
トレイズは事故でああなったわけではなく、少なくとも自らが招いた事態でもある。
その始末をなぜロックマンが負わなければならないのか。
そのときは、よほど情があるに違いないのではと思っていた。
それか極度のお人好し。
「人を助ける為ならいくらでも自分を犠牲にするんでしょうね、アルウェス・ロックマンっていう男は」
他人が受ける利益にしか目がいっていない。
今回の発言で明確に分かったのは、ロックマンは自己犠牲が異様に過ぎるということ。薄々感じてはいたけど間違いない。
頼られるままで今はよくても、いつか必ず限界がくる。ロックマンならやってくれる、ああしてくれる、彼ならこうしてくれる、いつだって困れば身を捧げてでも解決してくれる。
そんなふうにどんどん周りから思われたらしんどいってもんじゃない。
私の代わりに腕を失くしたり凍ったり記憶を消したり、助けてくれるのはありがたいけど、正直それってどうなの、と思う。今度は問題解決のために結婚?
負担偏りすぎじゃない……?
どんなに凄い魔法を使えても、死期を早めているように感じてならない。
もっと自分の命や人生を大事にしたほうがいいに決まってる。
「今のだってそんなふうに言われて、はいしたいです、なんて言う人いる? 女心ちっともわかってねーわこの社交界の馬鹿! このっこのっ馬鹿っ、バカっぶわぁぁぁあーーっか!!」
「ごめん一旦止まって、話を聞いて」
「むしろわざと言ってるの? 好かれてるのがウザいから嫌われようと思ってる!?」
そして今は治っていたとしても、魔物が白状しなければその状態がずっと続いていたわけで、私はそれが許せなかった。
誰を許せないって、一番はトレイズだ。
次に魔物。
次に、この男。
「もう……ロックマンを好きなのやめる」
乱れた息を整えて、ポツリと溢す。
自覚してから一年もない。
今ならまだ戻れる。たぶん。
好きだと言葉にして伝えた手前、心変わり早いなと思われるだろうが引き際もいちおう宣告しておく。
変な気を遣わせる前に、一歩下がったほうがお互いのためなのかもしれない。
「もし仮にトレイズを好きじゃなくて、ただあの子を救おうとしてそうなったのだとしても、今のも私を助けようとしてそういうこと言ったんだって思うから」
「違うよ」
「いーえ違わない」
なまじ私の好意を知っているから余計だ。
それに私は、恋というものが怖くなった。
この赤い瞳に捕まったら、私もトレイズみたいになってしまうのではないか。
周りが見えなくなって、自分だけを見てほしくてたまらなくなったり、別の自分に、知らない自分になりそうで、得体のしれない生き物になるのではないか。
シュテーダルのように感情が抑えきれず、世界を壊し呪いをかけたりしてしまうんじゃないか。
こんな簡単に結婚するとか、平気な顔で言ってのけてしまう男のことも理解できなかった。
こんな風に困っている女性がいたら、今と同じように何ともない顔で言うのだろうか。
私より先に誰かがこんな相談をしていたら、その人に結婚の話を持ち掛けていたのではないか。
女性に対し不誠実な行いをしないとはわかっていても、なんだか私はロックマンのことが分からなくなってきた。
もとより席がずっと隣だっただけで、相手のことをそこまで知らない私が言えたことではないものの、軽く結婚などとのたまったロックマンを前にして、急に襲ってきた不安や恐怖に胸が苦しくなった。
今になって、この期に及んで、私は私が相手に向ける感情が凄く怖くなったみたいだ。
誰かをどうにかしてしまえる魔法だってたくさん知ってる。
私だって人並みに嫉妬くらいはする。
でもさっき、トレイズのことを話したときに感じたのはそういう嫉妬を超えた嫌な、凄く醜いであろう感情だ。
私とロックマンでは、好きの熱量がどうにも違う気がする。
この男は、そう……博愛主義というか。
だから結婚と言われてもいまいち現実味がないどころか、問題を解決する手段として言ってくれている感が拭えない。実際そうだし。
結婚に夢を見ているわけではないが、少なくとも相手を犠牲にするような形にはなりたくない。
そう思うと、自分は貴族じゃなくて良かったと心底思う。
「もういい。ごめん変なこと言って、帰る」
本を赤い鞄にささっと仕舞った。
この話はやめだ。自分らしくない気がする。落ち着かないと。これ以上変なこと口走る前に。
席を立とうとすると、手首を掴まれた。
「っ馬鹿、よくないだろう!」
あまり聞いたことのない、荒立った声についビクッとした。
馬鹿!? どっちが馬鹿よ!?
中腰の状態でギっと睨み付けるとロックマンが立ち上がり、掴まれた手は机に押さえつけられた。
椅子に座っているときは同じくらいの目線だったのに、立たれたせいで見下ろされる。
その目が冷ややかとはまた違って、感情のある、眉間にシワを寄せて怒っているような、けれど眉が垂れ下がって、百歩間違っても泣きはしないだろうが、悲しそうな表情にも見えた。でも確かに怒っているようにも見える。
腕を引こうとしている私の手をなおも抑え込んで、ロックマンは間合いを詰めてきた。
後ろで高く結われているはずの金髪が、傾いた首に沿って鎖骨につたい落ちる。
「僕がなんでそんな行動をしたと思う? 僕の大事な君との記憶が消されそうだったから、その引き換えに魔力をくれてやったんだ。死ぬよりも堪えられないからそうしたんだ。トレイズのためじゃない……!」
手首がより強く握られる。
いつもの冷静な態度が嘘みたいな、急いた声色だった。
トレイズは契約内容を承知で魔物と手を組んだ。
助けたい気持ちはわかるけど、刺されなければ記憶を失くすことも魔力がなくなることも、過去のロックマンが魔物に乗っ取られることもない。ご丁寧に身体を差し出すことなく、この男ならトレイズを簡単に止められたはず。でもそうしなかった。
だから、トレイズを助けたかったから自分を刺したのには変わらない。
彼女のためじゃなくても、結果的に救いたい気持ちがあっての行動だ。
トレイズを救ったことは非難されるべきことではなく、人道上讃えられるべきであることは百も承知である。
でもロックマンがそんな状態になるべきではなかった。
「なによ、命をかけて助けたのには変わらないじゃない」
訴えるような視線を向けると、ロックマンはたじろいだ。
そう、助けたのには変わらない。助けない選択肢もあったのに選ばなかった。それが彼の良いところでもあるというのはわかりきっている。
だから、彼女の自業自得なのだから、トレイズなんて、
「トレイズなんて、放っておけばよかったのよ!」
小さく吐き捨てるように叫んで暫く、我に返る。
あ、とつい出た言葉に口を押さえた。
「……」
「……」
これは……まずい。
汗がダラダラ流れる。
今、凄く最低なことを言ってしまった。
別に、こんなことを言うつもりはなかった。
やっぱりこんな風になってしまう恋というものが、私の中では恐ろしい。
きっと軽蔑されたに違いない。暗にトレイズの死を願っているような、こんなことを言う女だ。しかもこんな夜の図書館で、今は自分たち以外がいないからいいけど、こんな場所で叫ぶなんてどうかしてる。
恐る恐る前を向けば、ロックマンが目を閉じながら口元を押さえていた。
指の隙間から口角が上がっているのが見える。
眉尻が下がったままで困り顔にも見えるが、それ以上になんとなく笑顔の要素が強い気もする。
「なんで笑ってるの?」
「いや……僕も性格悪いなって」
こんな最低な発言をする私を前にして笑うのだから本当に性格が悪いんだろう。
「笑える要素ないわよ」
なんだか気が抜けた。
もう何に対して怒っていたのかわからなくなって、馬鹿らしくなってきた。
自己犠牲が過ぎるとはいえ、人助けしたことを責めるのは良くなかったかもしれない。
ただそれが私の本音だったのだから、言って後悔はしていない。まぁ、金輪際こんなことを言うつもりはないけれど。
このまま帰ろうとしたが、こんな状態で帰るのもなんだか忍びなくなった。
友人と非常にまずい喧嘩をしたら(ほんとに、なんかまずいやつ)なるべくならその日の内に仲直りしておきたい性分なのである。
私も悪いことをしたと反省しつつ久しぶりにご飯でもどうかと思いこちらから誘ってみたが、こいつから言い出すなんてという失礼な顔をされたあげく、誘ったのは私なのにわざわざ高い料理屋に連れていかれた。財布に痛い。
食事中はずっと父の魔改造についてを語り合った。どうにか海に適応させたい娘心。
次いで食後、おごられるのは嫌なのにかたくなとして今回は譲られず、帰り際に代金をこっそり背中に張り付けたのに(本当に物理的に)結局夜中に窓からお金が返還されてきて疲れた一日だった。
そして寝台へ横になり眠ろうとしていた私はバッと起き上がった。
「結婚!!?」
びっくりし過ぎて忘れていた。
二章完、です!
次回からナンバリング変わります。
よろしくお願いします。




