物語2・31
何時間経ったんだろう。
腕を伸ばして背もたれに寄りかかる。
やれやれ、本は好きだけど目が疲れる。休憩をはさみながら読まないと肩も凝るし足もしびれるし。
にしてもそんな風になるまで読んでいたのか、と気がついて窓の外を見れば、もうすっかり夜になっていた。ちょうど月が雲に隠れて光が淡くなっている。
壁掛け時計を確認すれば閉館まであと三十分。
のめり込み過ぎるのが私の短所であり長所なのだが、直したいほどの短所ではないし伸ばしたいほどの長所でもないので、ひとまず加減を覚えることから始めたほうがいいのかもしれない。
他の席には誰も座っておらず、本棚が並んでいる通路にも人はいない。こんな時間まで残っているのは私たちだけだった。
館内は薄暗くて、各机に置いてあるランプがひとつひとつ周囲を照らしている。
ロックマンは隣の席で静かに違う本を読んでいた。
一生読む気なのかと目を疑うくらいあの本に集中してたから頭大丈夫かなって思ってたけど、どえれぇ光景がこの時間まで続かなくてよかった。
眼鏡は今、外して手元に置いてあった。
読書中にそこへ置かれるなんて眼鏡もさぞ理不尽な思いをしているだろうし本来の使い道を成していないが、文字を追う分には一点に集中して視線が固定されることはないので必要ではないのだろう。
使い道の意味で言えばそもそもこいつの目は悪くないのだ。
目から光線、一回でいいから見てみたい。
「バカげたこと考えてるでしょう」
自分をガン見している女を不快に思ったのか、こちらの邪な視線を察知するも身じろぐことなく、ジロリと流し目で睨んできた。
私は明後日の方向を見てピーピーへたくそな口笛を吹く。
寮に帰ってから読むつもりだった参考書をペラペラ捲った。
「まったく」
「へ~変身術って色々あるのねー」
ベック君用に借りようとしていた参考書を開くと、ちょうど変身術の解説のところだった。
変身できる対象は幅広く、動物系のネコ科イヌ科はもちろん、無足類のおばけ虫や、生物以外の物にも化けることができる。
ただし術者本人が生物ではないものに変身することは推奨されていない。
変身術は長く保たせるのが難しいのに、生物ではないものに変身すると長時間そのままの姿でいられることが多い。でもそのかわりに自分の意思で手も足も動かせなくなるので、魔法を解くことができなくなる。
花や木に変身しても大丈夫だけど、石に変身したら大変、ということだ。
ちなみに空想上の生き物や魔物、目にしたことのない物に変身することはできない。
それに変身する種類によっては場所にも気をつけなくてはいけない。
陸の生き物ならまだしも水中の生物になる場合は水の中かそれに近いところで変身しないと、下手したら呼吸ができなくなる。
人生終了。危険駄目絶対。
鳥になり空を飛びたいと思って変身しても、生まれたての雛と同じで飛び方がわからなければ機能しないわけで、変身とひとえに言ってもその姿を使いこなせるかどうかは術者の技量と経験による。
「魚になって水の中でちょっとでも生活できたらいいのに」
「あの場所だと魔法が解けるかもしれないよ。カウルスさんも試してみたんじゃない?」
父が人魚に変身して少しでも母といられたらいいのにと考えていたが、ロックマンも言う通りそれもうまくはいきそうにない。
父に怪魚の粘液を塗りたくって海の国の特別な石、アメス真珠を飲み込んでもらえれば、そのまま数日は人間の姿のままで海の国で過ごせるかもしれないけど、あんまり長くいると皮膚がふやけてぶくぶくになるから危ないのもあるし……。
粘液経験者としての見解は、粘液は息継ぎもできるようになるし皮膚も守ってくれるけど、時間が経つとやっぱりふやける場所もあって長時間は危険。海の国から帰ったあとは、なかなか指のシワが戻らなくて不快だったのを思い出す。
でも怪魚の粘液の成分を調べて手を加えてうまいこと進化させれば、もしかしたら問題を解決できるかも……?
海洋学者で、特に生物学のほうに力を入れている人に百万ぺガロを積んで研究を促しつつ、必要なら技術開発を視野に私の全財産をはたいて(父と母の結婚式費用含む)粘液の利便性を高めてもらって、もちろん私も協力する。父も実験体に差し出すし、必要な物があれば地の果てまで探すのも厭わない。
細胞生物学第一任者で魔法使い百選にも選ばれたことのあるティオン・プロテウス博士にも声をかけて、金のたまごを担保に(技術対戦でもらったやつだけど超貴重で現在の価値は百万ペガロ以上らしい)さらにお金を積んで積んで積んで……いける……いける気がする! お金の力で!
人魚の母を変えるより、父の方をどうにか魔改造していく方向に考えが偏っていく私だった。
「なんだかんだ君のお母さんは元気そうだった」
「会えたの!?」
唐突に言われて隣を二度見する。
「ほら結婚式の。稚魚もいた」
ああ、セレイナの海で行われた海王との謁見のことか。
マイティア王子もいたらしい。
「細かく言えないけど、不審がる人間は誰もいなかったよ。見た目が若かったし」
「わかいんだ……」
表向きだけでも元気そうなら、まだいいのか。表に出てこられないほど追い詰められるよりは。
父が言っていた通り、王女の存在はこのまま隠さないで行くんだろう。
しかも見た目が若いって、人魚に戻ったから?
人間の年齢だと四十過ぎくらいだけど、人魚だとそんなにたいした時間でもないってことなのか。
まず根本的な謎、母は人魚時代含めていったい何歳なんだろう。
色々隠したがりな女なので、きっと今の今になっても「ひ、み、つ」とか言いそうだ。
なにが秘密だ馬鹿たれ。
頭の中で煽ってくる母親にでっかい昆布を叩き付ける。
はぁ~、と長いため息が出る。
「わからないことがたくさん……ちょっと疲れてきた」
額に手を当てて項垂れる。
あんまり根詰めないほうがいい、と本に視線を戻したロックマンは人差し指で紙をめくりながらささめいた。
「一日くらい何にもしないで寝たほうが良いひらめきに会えることもある」
得意気にそう語る男に、へぇーと気の抜けた返事をして机にうつ伏せた。
一日何もしないで寝た日が連続四日くらいあったけど。何もひらめかなかったけどね。へぇー。
考え事を詰め込む脳味噌がもう一つ欲しい。
「生物の仕組みを完全に変える魔法もないかなぁ」
「現時点ではないね」
「……私さ、お母さんがお父さんと一緒になりたいって思った気持ち、今ならわかるんだ」
母が姿を変えて、長い寿命を捨てでも好きな人と一緒になりたかった気持ちが。
わかるから余計に、今回の出来事が悲惨に思えてならない。
覚悟を決めて人間になったはずなのに。
もちろん自分が母に会えないことも辛いけれど、人魚に戻ってしまった母の心を思うとやるせなさに胸が痛んだ。
海王の娘なら、きっと普通の人魚の寿命を遥かに凌ぐ。
私と父は母よりずっと先に死んでしまう。
一人残してしまうのだ。
海での家族がいることが幸いだけれど、この先母の気持ちを思うとかける言葉も見つからない。
「だから、ん~……なんとか」
「それなら」
読んでいた本を閉じたのか、パタンと紙と紙のぶつかる重い音がした。
組んだ腕に顎を乗せたまま、私は不貞腐れた顔で横を向く。
ロックマンは真っ直ぐに、動きのない目で私を見つめていた。
「僕と結婚する?」
机を照らす火の灯りがゆらゆら揺れて、私たちの影も瞬く。
「……」
おん?




