物語2・17
「落ち着きました?」
「すみませんんん……。お見苦しいところを」
部屋に入り、ベラ王女と寝台に二人並んで腰をかけた。窓際の椅子でなくていいのかと思ったが、こっちのほうが話しやすいからと座るよう促された。
二人分の重さに柔らかな寝具が皺を作って沈む。
「わたくしでも怒りますわ。思わせぶりな方は嫌いだもの」
うふ、と花が咲くような笑顔で言いのける王女に私の胸は高鳴る。
たぶん自分が男だったら断崖絶壁の下にいる彼女のもとへ恐れず落ちていっただろう。
恋に落ちるとはまさにそんな様子を言葉にしたすてきな一文であるに違いない。
「今から話すことは、驚いてしまうかもしれないけれど落ち着いて聞いてもらってもいいかしら」
改まった言い方にコクリとただ頷きだけで返す。
凄く慎重な彼女の様子にまだ何も言われていないのに緊張で身体が硬くなって鼓動が速くなった。
しかし、いいかしら、のあとから一分ほど経っても何も言い出されなかった。
ベラ王女の額にはうっすら汗が見えたが、視線は私へ向いたままである。
そんなに言いにくいことってなんだろう、やっぱり知らないうちに犯罪をしてしまって(船に追突した罪とか)捕まるわよ貴女って言われるのかもしれない。
やっぱりあんなの乗るんじゃなかった。
この場合私とヤヌスをそそのかしたあの港のじいさんは道連れにできるのかだけでも知りたい。一緒に来てくれればよかったのに私たちからすれば主犯はあいつだ。
私はわずか一分ほどの間に、港の爺さんを主犯格として突き出すことに決めていた。
「わたくしは貴女が海の王女の娘だと覚えています」
ギシ、と腰が浮きそうになり、座りなおす。
やっと話し始めたベラ王女に口を開こうとした私だが、彼女の両手がそれを遮った。
間髪入れず話し続ける。
「アルウェスがいつか貴女の助けになれるようにセレイナの国王である父と、次期女王であるわたくしの記憶はそのままにしておいたのよ。姫にあたる方の力になることができて光栄ですわ」
胸に手をあてながら微笑んでくれる王女に私は口を噤む。
知られていたという驚きと、あの男の用意周到な配慮にぐうの音も出なかったからだ。
それにせっかく話してくれたことに感謝するべきであるのに、自分がどういう存在なのかが不明確で何を言ったら間違いないのかもわからなかった。
そうです私はお姫様ですと自分で認められるほど海の国のことは知らないし、そう言われても否定したくなる気持ちは今も変わらない。小さい頃はお姫様に憧れを持っていてそういう類いの童話ばかり読んだりしていたが、なりたいとかではなかった。
母が王女なのは事実で父との間に誕生した子どもであるのも事実だけれど、姫と呼ばれていいのはその国を背負う覚悟を持った人物が呼ばれるべき敬称だと思っているので、光栄に思われるのは違うのではと悶々とする。
何も言わない私を彼女が不審がることはなかった。
「実はナナリーさんのご両親を海の国へ連れて行くお手伝いをしたのだけど、問題が起きてしまって」
「生死にかかわることですか?」
「いいえ」
問題と聞いて危ない目にでもあったのかと焦ったので、すぐに否定してもらえたことにホッとする。
一番の懸念は二人が安全に怪我なく無事でいてくれているのかどうかだったので、両親の姿を話し伝手ではなく目視で確認してくれている彼女の言葉はありがたかった。
となると問題ってなんだ。
安堵と疑問が交互に訪れる中、肩に手が置かれ、ベラ王女が一息吐いた。
「ネフェルティア様が戻ってしまったの」
戻る?
ネフェルティアは母が王女であるときに呼ばれていた名前だ。
言いにくそうに唇を噛む彼女は、数噛みかしたのちゆっくりと口を動かした。
「人魚に、よ」
え?
瞬きを一回する間に頭の回転をいつもより五倍の速さで動かして理解しようとしたけれど思考回路がこんがらがるだけだった。
人魚に?
なんで今さら?
本当に?
という疑問符ばかりで正解が出るわけもないのでぐるぐる考えるしかなくなる。
ベラ王女がわざわざ私を呼んで冗談にしてはたちの悪い嘘を言うわけはないし、少なくとも彼女の話は真剣に聞かなくていけないと自分に言い聞かせた。
「ナンニョクが海の中へ入るのを手伝ったのだけど、海水がネフェルティア様に触れた瞬間に足が魚の尾へ、髪が青色へと変化してしまったのよ。驚いたわ」
大きく見開いたままの目は乾燥を知らず、口をとりあえず動かすも、何から聞いたらいいのか整理ができなかった。
「え……でもあの、氷の始祖が母を人間の姿にしてくれたのでは」
「おそらくだけど、今その氷の始祖は彼女の中にはいないのよね? 力がなくなったら解けるものだったのか、あるいは何か誓約があったのかもしれないけれど……海に触れたらそうなってしまったの。本人も驚いて泣いていらしたから、知らなかったのね。今まで海に出向かなかったのは本能的に近づいたらまずいと感じていたからなのかしら」
「今、あの、今はどうしているんですか?」
「ネフェルティア様は海の王国に、お父様はセレイナの宮殿にいます。彼は今、ネフェルティア様を人間に戻す方法を必死に探されているわ。わたくしも何か力になれたらいいのだけれど……」
「海王様から何か聞かれていませんか?」
「セレスティアル様もわからないそうよ。人知を超えた力が働いているからか、予知はできなかったみたい」
へたりと床に膝をつく。
「わたくしが心配なのはむしろ貴女よ。以前も今回も、海に入って何も感じなかった?」
背中をさすられながら、床の一点を見つめる。
とりわけ、何かを特別感じたことはない。
海に入っても足が魚になるなんてことはなかったし、人魚の言葉もわからなかった。
懐かしいと感じたこともなく、すべてが驚きの連続だった。
海の水は思うより冷たく、それでいて深海はほのかに温かい。海の底の方が温かいのね、とニケも言っていたのでこれは私だけの感覚ではないはずだ。
あと何かあるとすれば、あのささいな痛みくらいだろう。
伏せていた顔を上げる。
「海水に触れた始めだけ、静電気のようなものを感じます。痛いと言えば痛いような、でもそこまでは痛くないような」
皆で旅行へ行ったときにピリリと電気が走ったような、でも小さい刺激でもあったためニケとベンジャミンに静電気走ったよね? とあとで思い出語りをしたときに聞いたが、二人ともそんなものは感じなかったと言われた。
冷たいのを刺激と勘違いしてしまった可能性もあるので気には留めていなかったが、今日海へ落ちたときも、電気が走ったような刺激を感じた。
ベラ王女がこの話をするまでは考えることもなかったが、はたしてそれは普通のことなのだろうか。
過敏なだけかもしれないけれど、と返す私に王女は首を振る。
「特徴としては案外、気のせいじゃないかもしれないわ。ネフェルティア様が海水に触れたとき、とても痛がっていたのよ。どのくらいの強い痛みかは知りえないけれど、海水に触れて痛いなんて少なくとも私は思ったことがないもの」
「関係があるかもしれないんですね」
「……いつこのことを伝えたらいいか正直悩んでいたの。手紙は危ないかもしれないし、アルウェスといつでも連絡が取れるわけではないから、このことがどこから漏れるのか、漏れたら貴女がどうなるのかとても気がかりで……ごめんなさい」
王女様が謝ることではないのでやめてくださいとぶんぶん顔を振って否定する。
誰も悪くないのにこんな風に謝られるのは申し訳ないし、ここで偶然お会いすることができて、しかも私に気づいてすかさず話してくれようとした王女の決断を称賛することはあっても罵る馬鹿なんて絶対にいない。
「父に会うことはできますか?」
海ではなく地上のセレイナにいるのなら会える望みはある。出張は明日までなので帰るまでに一目見て少し話もできたらとお伺いを立ててみた。
本当は母にも一度会いたかったが、そこまでは無理だろうとさすがに私も感じているので言い出すことはできなかった。
「彼はいつも書庫にこもっているのだけど、明日城の中へ手引きしてあげるわ。私のお付きとして行きましょう」
ありがたいことに会わせてもらえるようだった。
このままの姿で行くと誰が城に来たのか何の目的で来たのか怪しまれてしまうというので、顔と髪の毛が隠れるベールをかぶって付き人に紛れ込むことを提案される。
しかし明日は船上でなにかしら予定があるのではと、さきほどパーティーの端を渡りながら小耳にはさんだ内容を確認した。
セレスティアル王がどうのこうのというやつだ。
ベラ王女はそんなのセレイナにとって今更重要ではないしなんなら会おうと思えば今は自由に会いに行けるのだと誇らしげに言う。
確かに私たち家族のことも知っているし、聞いていると海の王国との仲は他の国より断然良さそうだった。
だから明日は貴女のために時間を使ってあげる、となんともかわいらしい笑顔で私を虜にしてくる。
こんな人を先ほど大笑いさせていた自分の尻が誇らしく思えてくるほどである。
そうとなれば明日いない代わりにパーティーへ顔を出さなきゃだわ、とベラ王女は足早に部屋を出て行った。
「ふー……」
宿の部屋でも自分の部屋でもない空間に落ち着かない私は、王女が用意してくれた簡易な寝台で横になった。
眠たくないが、形だけでも目をつむる。
視界が真っ暗になって静かになっても、頭の中の雑音は消えなかった。




