物語・23
どうにもおかしい。
その言葉を最後にゼノン王子が私から離れた気配を感じる。そしてその場でしゃがみ込んだのか空気が揺れた。一呼吸おいたのちに、んん、と王子のくぐもった声が聞こえる。
もしかしてトレイズを見るのと同時に見えてしまうというあの、この世の者ではないモノを見てしまったのだろうか、気分の悪そうな様子が伝わってきた。
「殿下、殿下? 大丈夫ですか?」
掠れ声で囁いているので彼に伝わっているのかは分からないが、どうしよう、王子の意見を跳ね返してでも自分が見ればよかった。本当に申し訳ないことをお願いしてしまった。
でもそんな事言ったら彼に失礼だと思うので心の中で謝っておくことに留める。
「昼前には教室へ戻るようにするんだぞ。全員揃わなかったら食堂に行けないからな」
皆は教室から出る準備を始める。
「ナートリー先生も見てきて良いですよ」
生徒達の声が騒がしくなっていく中、ボードン先生が教材をまとめながら私へ笑いかける。
「私も良いんですか?」
「先生はこの学校の出身ではないから、迷わないように色々見てきてください」
そうだ。設定じゃ私達、この学校の出身じゃないんだった。
「他の教室の先生もまわるだろうから、一緒に行くといいですよ」
「ありがとうございます!」
教室から出て皆と合流できる絶好の機会だ。
ゼノン王子もひとまずこの教室から出さなければ。
「探検って、わたくし初めてだわ」
「マリス様、まずは一階の校舎からまわりましょう?」
「そうね」
自由に見てまわって良いというのは幼心に探求心がくすぐられるのか、ほくほくした表情の子どもたちがとても可愛かった。男子生徒らはいつものすました態度とは裏腹に、駆け足で教室を出て行くのが見える。ドーランのシュゼルク城なみに大きくて広い謎の多い校舎なので、冒険心もくすぐられるのは無理もない。
そしてそんな中、もちろん友人などこの時点で出来ていない幼い私は一人で教室を出て行く。
寂しい姿に見えなくもないが、何とも逞しい姿というか、ここから見ていても瞳がキラキラ輝いているのが分かった。
男子生徒同様わくわくしているのだろう。確かあの日は校舎内を走り回っていたという記憶がある。こんなに広い建物に入ったこともなかったので、手あたり次第扉を開けてはじっくりと観察をしていた。
一方でロックマンはというと幼いゼノン王子の隣を陣取り、その周りに女子たちをはべらせながら教室から出て行くのが見えた。
不思議なことに王子が隣にいる時、貴族女子たちは周りを取り囲むものの若干空気のように静かになる。空気というより、あまり話かけることがないように思う。王子に配慮してなのか、二人並ぶ姿を後ろから離れて見守っている感じだった。王子の親衛隊に遠慮してのことなのだろうかと未だ不思議に思う光景である。
肝心のトレイズはというと、ロックマンの後ろで他の女子たち同様着いて行く姿があった。儚げで大人しめな外見とは合わない、少し行動力のある彼女。
いったいその目的は何なのか。
ボードン先生も教室から職員室へと移動したので、教室内は私一人となる。
「もう魔法を解いても大丈夫です」
「ああ」
ゼノン王子は私が一人になったのを見計らって指鳴らしをした。
ポンと魔法が解けた音と共に現れた王子は予想通りしゃがみ込んでおり、額に手を当てながら床に視線を向けてため息を吐いていた。物凄く辛そうである。
こんな姿見たことないので、思うよりそうとう堪えているようだった。
再度大丈夫かと声を掛けると大丈夫だとは答えてくれるものの、視線が上にあがらない。
こんな時ロックマンだったならとつい考えてしまうのは私の悪い癖だろう。
ロックマンだったなら何なんだ。
私は彼じゃない。
「王子、これを見てください」
ゼノン王子の横に私も同じようにしゃがみ込んで、幾分か彼の視線よりも低く腰を下ろす。
失礼しますと一声かけ、彼の目元にそっと右手を被せた。
完全に視界を覆ったことを確認した私は呪文を唱える。
花に太陽の光、草原を走る風、朝露の滴、葉脈の鼓動、白羅草の香り。
手のひらに神経を集中させる。
「胡蝶の羽、川のせせらぎ、硝子の結晶、流れる星の瞬き」
そのまま手をかざしていると、王子の顔が少しずつ和らいでいくのが分かった。青みがかって引き結ばれていた唇も、いつも通りの薄く赤みのある健康的なものに戻っている。
目元にある私の手をゆるく掴んだ王子は、ゆっくりとそれを外して隣にいる私へ笑いかける。
「とても綺麗な魔法だ。凄いな、お前は」
抑揚のない、けれど優し気な低い声でそう言うと、艶のある黒髪を揺らして彼は目を細めた。
この魔法は癒しの魔法と呼ばれるもので、治癒魔法とは違うけれど精神的な病気など治癒魔法では治せない部類の症状に効く魔法である。対象者はこの世では見ることのできない美しい光景が見ることができ、五感にも作用されるようでほのかに良い香りも感じられるようだった。
魔法をかけている私にはどんな光景が見られているのかまったくわからないが、ゼノン王子のすっきりした表情を見る限り良い光景だったのには間違いないらしい。
「ナナリー、殿下!」
ホッと一安心していると、教室の扉からニケが現れた。
「やっとベブリオから解放されたぜ。あいつまじで男に厳しいんだよ」
サタナースとベンジャミンもその後ろに現れる。
ボードン先生が言っていた通り彼女達も自由に学校内を見て良いと言われたようだった。
*
「トレイズに憑いているのがトレイズじゃないってことですか?」
「そうなってくるとまたややこしいことになるんだがな」
素っ頓狂な声を出すニケに、ゼノン王子は目を瞑った。
校内探検?をしながら五人で廊下を歩いていく。
薄暗い廊下は昔はお化けでも出てきそうだと怖かった。
冷たい床を蹴り飛ばす。
「あれがそもそもトレイズなのか、化けているものなのか、だが化けているものにしては上手すぎてどうにも。あんなに長い間変化していられるのも不気味だ。時の番人に依頼したのは本当にトレイズだったのか、そもそもそこから何か間違っていたんじゃないか?」
「おいジジィ、王子様の質問には正確に答えろよ」
王子の言うことにも頷ける。彼の魔法でしてもトレイズに憑いている何かを見ることは叶わなかった。通常であれば見えるはずのものが見れないとなれば憑いているものがいないとなるけれど、王子が見たのは黒い靄だ。見えなかったワケじゃない。何かが確実に憑いている。
時の番人はベンジャミンの胸の谷間からヒョイと顔を出すと、首を捻って口をモゴモゴし始めた。
「そぉんなこと言ったって、わしだって久方ぶりに人間を過去へ送ったからのぅ。身元の確認なんちゅうもんも別にしとらんし」
「おいおい、ってことはなんだよ。そいつが誰であろうととにかく頼まれたら送ってたのか?」
「……」
サタナースの黒く冷めた視線から逃げようとしてか、時の番人は唇をついっと捻じ曲げてそっぽを向いた。
こいつ、黒である。




