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旭日に顔を上げよ  作者: 寿和丸
11章 混乱の幕開け
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95話 満州事変

日本は遼東半島先端の地である関東州を中華民国より租借し、この地の守備と南満州鉄道の警備のために関東都督府を置いており、ここに守備隊を置いていた。関東と言う名称は万里の長城から見て東を、「関」の東であることから関東と呼ばれるようになり、一般に満州を指す。関東軍はこの地の守備隊の呼び名である。

従って、本来なら関東軍は遼東半島や南満州鉄道周辺から外れての軍事行動は天皇の命令なしに出来ないことになり、これに違反した場合は死刑相当の重罪だった。


ところが前に話した通り、張作霖ちょうさくりんの爆殺事件などでは、関東軍の参謀部は明確な軍紀違反を行っていた。にもかかわらず、殆ど罪に問われていなかった。

そして関東軍参謀本部の板垣征四郎と石原莞爾かんじが新たな事件を引き起こす。

31年9月18日、彼らは中国兵の線路を爆破したかのように偽装して、奉天郊外の満蒙線を爆破する。爆発は小規模で、その直後に列車が無事通過できるほどであったが、板垣は上司を説得して、日本国益を守る自衛行動として関東軍を出動させる。爆破場所が柳条湖と呼ばれていることから、“柳条湖事件”と呼ばれ、これが満州事変の発端となった。

19日午前1時、東京陸軍中央に「支那軍隊が満鉄線を破壊し、日中部隊が衝突した」との第一報が入る。続いて2時には「中国軍が満鉄線を爆破し、目下交戦中」との入電があった。これを受けて、朝7時より陸軍省・参謀本部合同の会議が開かれた。

陸軍省から杉山元はじめ次官、小磯国明軍務局長、永田鉄山軍事課長、参謀本部から二宮治重参謀次長、梅津美治郎よしじろう今村均ひとし作戦課長、橋本虎之助情報課長が出席している。

この会議で小磯が「今回の関東軍の行動に全く問題なし。」と発言し、他の者もこれに同意して、兵力増強を閣議に求めることになる。

満州での事件の内容を調査することなく、関東軍の行動を容認し、増派まで決定している。これは事前に計画を知らされていたか、予知できていたと伺わせるものだ。

午前8時に、林銑十郎朝鮮軍司令官は「奉天方面への出兵を準備中」と報告がある。

その午前には杉山、二宮、荒木教育総監本部長が「本事件をもって、満蒙問題解決への動機とする」ことで一致する。つまりこの事件を利用して満州やモンゴルでの諸問題を片付けてしまおうと考えたのだ。

ただ、当時の朝鮮は日本国内であり、満州は中国領でここに出兵することは海外派遣になる。海外に派遣するのは内閣の承認が必要であり、天皇の裁可が必須でもあった。このため参謀本部は朝鮮軍の海外派兵を臨時閣議で求めようとする。


だが午前10時より開かれた閣議では「事態不拡大」の方針が確認された。

正平は事態の真相を把握できなかったが、関東軍の行動に計画的な工作を感じとり、朝鮮軍の派遣を言い出さなかった。これは幣原外相も同じで、関東軍の暴走を警戒しており、若槻首相もこれに同意してくれた。

正平は張作霖爆殺事件で行った関東軍の工作を今回も疑っていたし、シベリア出兵の失敗の二の舞を避けたかった。

午後から正平を含めて、陸相、金谷参謀総長、武藤教育総監による三長官会議が開かれ、正平は「時局を現在以上に拡大しない」との閣議の方針を伝え、各長官もこれに同意する。

それを受け、金谷は参謀長本会議で「速やかに事件を処理して、旧体回復に努める」として指示する。これに対し今村作戦課長は「矢は既に放たれていると」と激しく抵抗した。参謀本部は一枚岩でなかったのだ。それでも金谷は本庄繁関東軍司令官に「必要の範囲を超えない」とする主旨の電文を発するのだった。正平も本庄に「事態の拡大しないよう、極力努力しろ」と打電した。


しかし、正平や金谷の電文を無視するように、関東軍は19日から軍司令部を旅順から奉天に移していた。遼東半島の先端にある旅順から南満州の中央都市の奉天に拠点を変え、軍事行動に備えた。

本庄司令官は指揮下の部隊に対し、次のことを命じた。北満州のハルピンや吉林への派兵準備のために、長春に兵力を集中すること。西方への遼河りょうがの渡河地点を確保するため、満鉄本線西部の新民屯、鄭家屯を占領すること。北西部の満鉄培養線の四平街-チョウ南線を守備すること。以上の3点だ

これらは石原莞爾の発案だった。聞きなれない地名が多く含まれるが、これらは南満州の都市名です。位置など詳しいことなどは地図などを検索していただきたいが、皆鉄道の重要地点と思ってください。

石原は鉄道を抑えることで前満州の軍事占領を企てていた。


陸軍中央はこの計画を慌てて中止させるべく、朝鮮軍の派遣を差し止めた。これにより、関東軍は新民屯、鄭家屯などの渡河やチョウ南の占領は中止するしかなくなる。

そこで今度は、関東軍参謀たちは謀略をもって吉林を不安定化させることを狙う。関東軍は日本居留民の安全を確保するために、朝鮮軍の越境を促そうと考えた。だが、吉林市の日本居留民には何の被害が及ばないとして、吉林市の総領事などは救援要請を送ってこない。それでは関東軍の出撃の名目は立たない。本庄司令官は吉林への派遣を見送ることにした。

ここでまた、石原と板垣が動く。本庄司令官に強硬に吉林への出撃を主張した。この深夜にも及ぶ説得に根負けし、本庄は遂に同意してしまった。

21日、装甲列車を先頭にして、関東軍は吉林に進撃する。更にこの吉林出兵に応じて、林朝鮮軍司令官も越境して満州への進軍を命じる。

ここに至って、日本中央の指令では関東軍が制せなくなってしまっていた。


参謀本部内でも作戦課は参謀総長の指示に反するかのような「満州においての対策」を作成した。これで参謀本部内は今村たちの考えで固められてしまう。

彼らは関東軍の態勢を旧状に戻すのは絶対無理と決め、現状を維持すべきと考えた。内閣が現状を認めないなら陸相は辞任すべきで、政府が瓦解しても一向に構わないとまで考えていたのだ。

「関東軍の進軍を認めないようなら、倒閣運動を始めるぞ」という脅しにもとれる内容だった。

繰り返すが軍司令官が独断で国外に派兵することは、禁じられており、陸軍刑法で死刑に値する、重罪だ。

それだけの重大なことに関わらず、関東軍は独自の行動をとった。

それは、陸軍省や参謀本部内にこれを支持する勢力がいたからでもある。


当時国内にいた永田鉄山、岡村寧次、東条英機編成動員課長、渡久雄欧米課長、関東軍にいた石原莞爾と板垣征四郎は一夕会のメンバーだった。彼らは呼応して満州事変を引き起こしたと考えて良い。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 満州事変の経緯が丁重に書かれている事。 [気になる点] 史実では作戦課長今村均氏は、不拡大派だったと思います。主人公が陸軍大臣で不拡大方針なら同調すると思うのですが、本作で推進派になってい…
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