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旭日に顔を上げよ  作者: 寿和丸
10章 改元
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81話 支那の状況

ここで、当時の支那の状況を振り返っておこう。

支那は「清国」を英語でChinaチャイナと呼んでいて、当時の日本では支那と呼ぶのが普通で、ここでも支那を主に使うことにする。


19世紀になると清は西欧列強の力を目の前にして、改革の機運が高まった。まずヨーロッパの科学技術を導入して清朝の国力増強を目指す。しかし日清戦争で、日本に破れたことで、技術面だけ取り入れても国力は増大しないと思い知る。そこで98年に進歩系の官僚たちが立憲君主制をとり本格的に政治体制を築こうと光緒帝と結び政権を奪取する。しかし、西太后せいたいごうが保守派を引き連れクーデターを起こし頓挫する。

99年、外国軍の侵略や横暴に反感を持った義和団が、「扶清滅洋」をスローガンに掲げて外国人の排撃始めると、1900年西太后はこれに乗せられて列強に宣戦布告してしまう。だが列強相手に敵うはずもなく、日本やロシアなどの八カ国連合軍に北京を占領されてしまう。これが前に話した義和団事件だ。

その後、西太后の死亡によって清朝政府はようやく近代化改革に踏み切り、05年に科挙を廃し、08年に大綱を公布して憲法を発布と議員開設を約束し、11年に内閣を置き近代化に踏み出す。

しかし時は既に遅く、民心の心は清朝を離れており、勢力を挽回できずにいた。ここに漢民族の孫文らの革命勢力が力を増し、全土に清朝打倒運動に拡大する。

11年10月に武昌で漢民族の武装蜂起をきっかけに辛亥革命が起きた。12月にはモンゴルにおいても独立運動が起きて清朝は内部崩壊する。

12年1月に中国の南京で中華民国が樹立されると、清朝最後の皇帝、宣統帝(溥儀)は2月、正式に退位し、ここに清は完全に滅亡した。


孫文は広東省の客家に生まれで、マカオで医者をしていたが、やがて政治に目覚め日本において「中国革命同盟会」が結成し、総理になる。辛亥革命の後、清朝政府の2代目大統領だった袁世凱えんせいがいとの話し合いで臨時大統領になる。だがこれは各国から認められたものでなく、宣統帝は袁世凱に元首の座を譲って正式な大統領は袁世凱がなる。

袁世凱は中華民国の首都を南京から自らの勢力基盤である北京に移す。これと同時に地方においては従来わけられていなかった行政権と軍事権を分離させ、清末以来土着化する傾向にあった地方勢力を中央政府の統制下に編成するなどの手腕を発揮する。

これが出来たのは袁世凱が列強諸国から支えられていたからだ。列強諸国は清以来の権益の保障、借款の窓口として支那の安定した政権を必要としており、その窓口になりつつ、列強諸国の力を利用して袁世凱は統治を行ったのだ。

法制整備、積極的な産業振興を行い、大総統に軍権を集中させて軍隊の近代化をはかり、学校制度の整備による教育の普及など各方面で近代化がおしすすめられた。袁世凱の専制体制は強引で、議会制民主主義を標榜していた宋教仁は暗殺され、孫文は日本への亡命を余儀なくされた。

ここで、土佐出身の豪商・鶴屋子吉が仲立ちして、浙江財閥・大富豪の娘である宋慶齢と結婚している。宋慶齢の姉は宋靄齢そう・あいれいで孫文の秘書をしていたことも縁だった思えるが、宋慶齢にとって孫文は26歳の年上で、おまけに彼が妻子を持っていたのでなかなかの決断があったと思われる。余談だが、彼女の妹の宋美齢は蒋介石の妹であり、この姉妹の活動は中国の歴史に少なからぬ影響を与えている。

袁世凱は帝政への意向を模索し更に権限強化を図るが、列強が大戦に巻き込まれヨーロッパを主戦場としとなり、その隙に日本から21か条要求される。この要求を受け入れてしまったことから、側近が離反し急速に力を失い始め、失意の中16年6月に病死する。


ここでようやく孫文も活躍できるようになり、19年に孫文は中国国民党を作り、21年に広州において革命政府(国民政府)を樹立した。彼は中央集権を目指したが、革命政府内には地方分権を目指すものもいるなど内部は分裂していた。

孫文の言動を見ると、親日にも反日にもなっている。また強力な国家体制を考えていたので、ロシア革命の影響も受け、ソビエト政府に近づいてもいる。ソ連の顧問を受け入れ、「民主集中制」秘密党員制」「党軍設立」などを掲げ、24年に国民党は中国共産党との間に国共合作を行うまでになっている。

その彼も25年に死去した。


26年9月、蒋介石が継承し、北京政府撲滅を目指すとして"北伐宣言"を発表する。

この当時の国民党は支那の一部を治めていただけで、各地に軍閥が勢力を誇示していた。袁世凱の死後の北京にはその残党による「北京政府」が存在していた。また北京の北方の満州には張作霖が権力を握っていた。


北伐軍は、全国統治を望む世論を背景に北京政府や各地軍閥を圧倒、27年に南京、上海を占領する。ここで事件が起きる。

3月、南京に入城した蔣介石北伐軍の一部が反帝国主義を叫びながら外国領事館や居留地で暴行陵辱を行った。米英軍は艦砲射撃を開始し、陸戦隊を上陸させて居留民の保護を図った。この時、日本の領事館も襲撃され、死者も出るなどの被害も出るが、時の外相の幣原喜重郎は自重した。イギリスと蔣介石の説得工作をおこなって、蔣介石は事態解決および過激派の粛清を行うと約束する。

蒋介石は、この南京事件は共産党系の不穏分子が引き落としたと考え、共産党員に警戒を持つようになり、共産主義者を粛清していく。これは幣原外相との約束の蔣介石による答えとも言える。その後、北伐軍は山東省に近づき、日本軍と戦火も交えるのだが、蒋介石はすぐに撤退させ、日本軍もまた応じている。


9月、田中義一首相と蔣介石が会談し北伐・対共産主義戦に対する支援と日本の満州での権益を認める密約を結んだ。蔣介石は上海での記者会見で「われわれは、満州における日本の政治的、経済的な利益を無視し得ない。また、日露戦争における日本国民の驚くべき精神の発揚を認識している。孫先生もこれを認めていたし、満州における日本の特殊的な地位に対し、考慮を払うことを保証していた」と語った。

このように見ると、ここまでの日本と蒋介石の関係は格別に悪化していない。事態はある事件を機に泥沼化に陥る。


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― 新着の感想 ―
[気になる点] 中国革命同盟会は間違いです。孫文は革命の文字をいれると一般民衆に悪印象を与えるため同盟にしたはずです
[一言] 中国 中華人民共和国の略称であり、現在統治者を示す言葉。 シナ 中華地域を示す名称であり、特定の統治者を示すものではない。 現在、シナと呼ぶのは地域の統治者が誰かを断定していない呼…
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