80話 普通選挙
27年4月に発足した田中内閣は高橋蔵相の果敢な政策によって金融パニックを抑えることが出来たが、田中内閣は過半数に達しない少数与党であった。
内閣発足直後に開いた臨時国会で、緊急勅令の事後承認と台湾銀行の救済するための法案こそ可決できたが、これは野党の協力を取り付けたからに過ぎない。国会の議員数が半数に満たないままの与党では運営は極めて不安定だった。
6月には野党の憲政会と政友本党は合同して、民政党を立ち上げ、政府与党に対抗する。民政党の初代総裁は大蔵官僚出身の浜口雄幸で、財政健全化を主張して政府と対立する。
政府与党の国会運営はますます難しくなっていく。
そこでこれに憂慮した田中は、次の衆議院選挙を有利になるよう、選挙取り締まりをする各道府県知事や警察幹部の交代人事を行った。選挙違反の取り締まりを、与党系候補には緩く、野党系候補には厳しくして、選挙で有利になるようにしたのだ。
これは官吏の任免基準を定めた文官任用令に、官庁事務の都合で休職を命ずることができることを利用したものだった。田中内閣に協力的でない知事や警察幹部を無理やり休職させ、自分の息のかかった人物を登用した。この措置は明治期にも行われているのだが、昭和になってもこの手法が使われたことに新聞各社は「党色人事」と批判する。
更に、政友会の看板政策に地方振興があり、地方の産業育成を名目に、政府の財政出動を増やす。地方分権のために税制の一部を国税から地方税に移すなどのことまで行う。地方に金をばらまき、地方の有権者の支持を得るためのものだった。
「選挙に勝つためとは言え、田中さんもえげつないことをやる」と正平は呆れて見ていた。
ただ、そんなことまでして国会を解散させ、28年1月に行った総選挙で与党は過半数を取れなかった。
田中の目論見は外れ、国会運営は初歩から躓くことになる。
更に、与党政友会の事実上の選挙責任者だった鈴木喜三郎内相が、投票前日に「民政党の掲げる議会中心主義は天皇主権と矛盾し、違憲だ」と言い出したのだ。だが、これがマスコミや野党から非立憲的と非難の的になってしまう。民政党の悪評を広めようとしてやったことが逆に、政友会の評判を落としてしまった。
このことから田中は鈴木の更迭に踏み切るのだが、これによって閣内対立が激化する。特に当選したばかりの久原房之介を大臣に据えたことから、水野文部大臣が憤慨し、辞意を表明した。これを昭和天皇に慰留させたことから、天皇を政局に利用したと批判され、貴族院は異例の田中首相問責決議を可決した。
それでも田中は居直る。民政党内部に手を突っ込み、一部の議員を買収して与党に移らせる。更には旧政友本党系議員を離党させ、新党を結成させた。そして与党に加わらせ国会内の過半数を獲得したのだ。
田中の強引な手法はまだ続く。
28年3月15日に警察は選挙戦で共産主義者が活動を強めたと言う理由で、共産党関係者を一斉検挙する。1000名以上が取り調べられ、488人が起訴された。これには相当な行き過ぎた取り調べが行われたようで、拷問を受けたと証言する国会議員までいる。
だが田中内閣の暴走はこれだけですまない。治安維持法が「国体変革を目的とした政治結社の加入者」しか取り締まれないことから、捜査に支障が出たと判断した。
治安維持法を改正して、「国体変革を目的とする行為をした者」にまで取り調べできるように、取り調べ範囲を拡大する法律の改正案を取りまとめる。この治安維持法の最高刑は死刑である。
しかも、この法律改正を国会審議なしに行ったのだ。これには野党ばかりでなく与党内でも反対論が出て、枢密院までもが賛否が相半ばする。だが結局この改正案は実行されてしまう。
本人に国体変革を目的とする意識がなくても、警察に疑われれば、取り調べ可能になる。
路上で「おい、ちょっと来い」と警官に言われれば、捕まりそのまま留置されてしまう危険性があった。
この後、この治安維持法によって検挙者は激増していく。共産党党員は勿論、社会主義に共感する教職員や学生、芸術家まで検挙される。検挙者の中には共産主義と決別を宣言する「転向」者も増えていく。
これは後のことになるのだが、33年2月には「蟹工船」で有名な小林多喜二も強制連行され、取り調べられ、拷問の末に殺されている。遺体を引き取った家族の証言では、多喜二の太腿は内出血で腫れあがり、ズボンを履かせることも出来ない状態だったという。どのような拷問をすればこのような状態になるのか想像すらしたくない。
これは明らかな国家犯罪だ。
法律改正が国会審議なしに決まることが、どれほどの悪法までもうみだすことになるのか、これが示している。
田中内閣は政権維持をするために明らかに迷走するようになっていた。




