78話 田中内閣発足
若槻内閣が退陣すると西園寺は次の内閣に野党第1党だった政友会総裁の田中儀一を首相として、天皇に推薦した。
26年4月に発足した田中儀一内閣のすぐ取り組まなければならない仕事は金融恐慌を収めることだ。
就任直後に緊急勅令で、支払い猶予礼を出すとともに、5月に開いた臨時国会でこの緊急勅令の事後承認を行うとともに、台湾銀行救済の法案を可決させ、金融パニックを抑えた。
これに当たったのが高橋是清蔵相である。彼は片面印刷の200円券を臨時に増刷してまでも現金の供給に手を尽くすという荒業を見せる。
片面印刷の200円券というのは取り付け騒ぎで紙幣が不足したことから、製造させたものだ。造幣の速度を優先して裏面の印刷が省略して、裏面が白い事から「ウラシロ」とも呼ばれた。潤沢な現金の供給を行って混乱を沈静化させるために、銀行もこれを店頭に積み上げるなどして不安の解消に努め、金融不安はしだいに収まっていく。一部は預金者に支払われたが、片面印刷で作りも粗雑であったことから市中で使用しようとしたら、偽札扱いされた事例もあったようだ。この騒ぎが収まるとすぐに回収されたのは言うまでもない。
このようにして金融恐慌は終息したが、田中内閣の前途は順調とは言えないものだった。
田中儀一は原内閣でシベリア出兵の収束に陸軍大臣として苦労した。将来は元帥とも言われてもいたが政界への転身を図り、26年政友会総裁に就任にともない、治安警察法により現役軍人は政治結社に加入できないことから陸軍は退役している。軍人としての最高栄誉である元帥の称号よりも、首相となって、陸相として出来なかったことを行いたい希望があったのだろう。
このころの政友会は、原首相が暗殺され、高橋是清が首相となり後を引き継いだが、統率力に欠け、分裂して第1党の地位を失っていた。当時の慣例として首相は大臣を務めるなどの経歴を必要としていた。高橋以外に首相候補者いない政友会は急遽外部から総裁を迎え入れることになった。
ただ、伊藤巳代治や後藤新平などに総裁就任の声を掛けたが次々断られ、田中儀一だけが応じたと言う経緯がある。
また田中には陸軍大臣就任中に在郷軍人会を組織して、彼の呼びかけに応じて軍人会の票を集められる思惑もあった。ただ、彼は軍人として優秀でも、政治家、政党人の経験はなかった。それが問題の生じたときに閣内での意見を統一するのに手間取ることにもなるのだが、それについては後述する。
陸軍大臣には宇垣に代わって、白川義則が就いている。白川も愛媛出身だが、田中直系であり、参謀長の鈴木参謀総長、南次郎参謀次長などで田中系が以前占められている。
内務大臣の鈴木喜三郎は司法官僚で自由主義を敵視していた人物であり、司法大臣には弁護士の原嘉道が抜擢され、鉄道大臣には小川平吉が、外務大臣は田中が兼務し、外務政務次官には森恪、内閣書記官長には鳩山一郎が任じられた。小川と森は国粋主義者として知られ、鳩山は鈴木の義弟で協力者である。大正デモクラシーで活躍した政友会の古参幹部も閣僚には任じられるが、重要ポストからは外されている。
この人事からも分かるように、田中に近い人物や協力者が集まり、政友会には自由主義的な政策を求める者が少なくなる。
鈴木・原によって治安警察法が強化され、森・小川によって軍部と連携して支那への積極的な進出策が図られるなど、護憲運動などでかつて政友会が勝ち取った成果を否定する政策が採られるようにもなっていく。
前に若槻内閣に反対したのも支那に対する軟弱姿勢を批判したからであり、外交姿勢は強硬なものになる。
田中は外務大臣を兼任し、対中積極論者の森恪を外務政務次官に起用した。
「お前が大臣になったつもりでやってくれ」と実務の全てをまかせるのだが、森は山東出兵し、張作霖に対する圧迫などといった対中強硬外交が展開するようになる。
これに対して田中は、ある程度の協調が望ましいと考えるが、積極的な外交を推進する森を抑えられなくなるのだ。
「お前が大臣になったつもりでやれ」と言われれば森は、大臣の権限を最大に使うだろう。
上司の指示に従って、部下がやれる範囲を決める形にしておかなければ、部下の暴走を許すことになる。
このあたりにも田中の政治手腕の無さが感じられる。
ライバル関係にある憲政会が民政党に名称変更し、次第に自由主義的な考えを持つ人々の支持を集めていく中で、政友会は親軍的な人々で構成されるようになる。
これは支持基盤が狭まることになり、政友会はかつての自由主義政党とは離れた親軍的な保守政党に変質していく。
田中の性格によることもあるが、政治家としての経験の無さが、偏った人事を行い、政策を狭めたことのように思える。




