75話 昭和恐慌
少し、主人公のこととは離れるが、当時の状況を見てみよう。
昭和と改元された翌2年(27年)の帝国議会では、冒頭から「朴烈事件」と「松島遊郭事件」を理由に、野党が若槻内閣弾劾案を提出し、紛糾して始まった。
朴烈事件とは朝鮮人朴烈と愛人の金子文子が共謀して、震災の混乱に乗じて大正天皇暗殺を企てたものだ。と言っても確たる証拠に乏しく、検察は供述を得るため、二人の要望をなるべく聞くようにした。二人を対面させたばかりか、朴の膝の上に金子が乗ることも黙認したとも言われる。野党はこの二人のいかがわしい写真を入手して、若槻内閣を糾弾したのだ。また松島遊郭事件は現在の大阪市西区にあった松島遊廓の移転計画を巡り、複数の不動産会社から、与野党政治家3名が、当時の金でそれぞれ3から40万円を受取ったとされるものだ。
これに似たスキャンダルは多くの内閣にもあった。だが若槻内閣が少数与党と言うことで国会を乗り切るのが難しくなる。
ここで若槻は政友会総裁・田中義一と政友本党総裁・床次竹二郎と会い、「践祚のおり、予算案だけはなんとしても成立させたいが、弾劾が出ている限りどうしようもない。引っ込めてくれさえすれば、こちらとしてもいろいろ考えるから」と持ちかけた。野党はこれを承諾し、「予算成立の暁には政府に於いても深甚なる考慮をなす」という語句を含んだ文書にして3人で署名した。「深甚なる考慮」とは内閣退陣を示し、予算の成立と引き換えに若槻内閣は退き、野党の政友会が組閣の大命を受けるよう取り計らうことを意味するものだ。
これで若槻は議会を乗り切れたのだが、予算が通っても一向に総辞職をしなかった。これに怒った野党は合意文書を公開して、「若槻は嘘つき総理である」と攻撃した。若槻禮次郎は「ウソツキ禮次郎」と呼ばれ、攻撃されることになる。
更に若槻内閣は失敗を重ねる。日本経済は大戦中こそ、好景気であったが、戦後になると一転して不況に陥り(戦後不況)、企業や銀行は資金不足に見舞われた。更に関東大震災の処理で発行した震災手形が膨大な不良債権となってしまった。このため中小の銀行では資金難から経営状況が著しく悪化していた。
そこで片岡蔵相が銀行の救済を国会に申し立てるのだが、野党から「そんな危ない銀行があるものか。あるなら名前を出せ」などと執拗に追及された。勿論危うい銀行名などを蔵相が言えるわけはない。「どうかこのままでは潰れる銀行が出てしまう。銀行救済策をどうにかして欲しい」と頼むしかない。それに対し野党側は納得しない。「危ない銀行などないから、言えないのだろう。早く危ない銀行の名前を出せ」と更に追及してくる。全く無茶苦茶な理屈だ。
これに蔵相が切れてしまう。ここで蔵相は官吏からの緊急報告書を見て、「現に今日正午頃、渡辺銀行がとうとう破綻を致しました」と胸を張って発言してしまった。売り言葉に買い言葉でないが、蔵相の発言は全くの失言だった。実際には東京渡辺銀行は金策にこの時点で成功しており、倒産などしていなかった。だが、この発言で預金者が殺到し、休業に追い込まれてしまう。27年3月のことだ。
これにより他の銀行にも不安に駆られた預金者が押しかけてしまい昭和金融恐慌が起きる。
この頃の銀行は銀行法などの整備もされてなく、安全網も出来てない。昭和金融恐慌が起きた原因として、未熟な金融システムと、経済的危機に正しく対処できなかった未熟な政策が挙げられる。金融システムの整備が完全でないことは大正の頃より意識はされていたのだが、ほとんど手を着けられていなかった。そして何よりも当時の銀行が脆弱でもあった。
明治になって西洋の経済をモデルとして多くの銀行が設立されたが、その中には、公債発行を当てにして設立されたものが多くあった。資金需要に応じる為でなく、公債の資金の取得を動機として設立したのだ。金融の事情に不案内な者まで銀行経営に携わったとも言われている。
そして日露戦争後に経済が発展してくると、民間の資金需要に応じるために銀行の設立が推奨され、資本金額の制限が撤廃され、規制や制限もゆるいものとなった。資産家や資金に余裕のある企業が銀行を設立するようになり、さらに特定企業への融資の制限も撤廃されてしまう。鈴木商店と台湾銀行がその典型例で、両社は互いにもたれ合うような関係となり、どちらかが破綻でもすれば共倒れの関係になっていた。
東京渡辺銀行も経営者一族の関連企業に多額の貸し付けを行っていた。これらの融資が戦後不況で焦げ付き始め、震災後に悪化してしまう。これはどこの銀行でも同じことなのであるが、蔵相の発言が余計だった。
蔵相の発言で心配になった預金者から預金の引き出しに押し寄せられ、東京渡辺銀行は応じきれなくなる。
「うちの銀行の金策は出来ており倒産などしてなかったが、蔵相が嘘を言ったからこんなことになった」と責任を蔵相の所為にして、休業してしまった。
蔵相発言は歴史に残る失言だった。




