72話 宇垣一成
この小説を書くにあたって、私は西園寺公望や石原莞爾を相当辛らつに表現することになると予測していた。それでプロローグでは西園寺を大徳寺、石原を水野と変えていました。しかし、書き進めていると二人を高く評価しないといけないと感じるようになったのです。
そこでこれから二人を本名のまま書いて行こうと思います。読者の皆様には混乱するかと思いますが、なにとぞご容赦ください。
また36話で水野雄二を登場させていますが、石原莞爾とは全く関係ありません。
なお、すでにプロローグの箇所は西園寺、石原と変えております
25年春、正平に陸軍大臣の宇垣が近づいてきた。
宇垣一成は岡山出身で、若くして教員免許を取得し10代で小学校の校長に就くなどして、陸軍士官学校に入る異色の経歴の持ち主だ。卒業してから、処世術が巧みとは言えないが田中儀一の下に付きこれを足掛かりとして昇進していく。そして24年に清浦内閣で田中の後押しにより、陸軍大臣になる。次の加藤内閣でも陸相となるが、この頃から次第に田中とその関係が深い政友会と距離を置き始め、憲政会に近づき軍縮実行を目指すようになっていた。
大戦後、世界的に軍縮が大勢となって、海軍力の軍縮が主要国で決定された。ワシントン条約締結により、アメリカやロシアからの軍事的脅威が薄らいだことになり、陸軍でも軍事費削減が避けられなくなっていた。
国民から「軍事費を削減しろ」という要求は強まった。22と23年には帝国議会の追及を受けて山梨半造陸軍大臣のもとで、二度にわたり軍備の整理・縮小を実施したが、これでも国民の満足を得ることが出来なかった。さらに関東大震災からの復興のために莫大な資金が必要になった。この復興費捻出に更なる軍事費の抑制が迫られることになり、陸軍大臣となった宇垣は大胆な軍縮をせざるを得ないと判断した。
これが宇垣軍縮と言われるもので、21個師団のうち4師団、連隊司令部16か所、陸軍病院5か所、陸軍幼年学校2校、廃止などを決定する。この結果として約3万4千人の将兵と、軍馬6千頭が削減される見通しだ。
これにより浮いた金額を陸軍の近代化に回すのだが、欧米に比べ装備の貧弱感は拭えきれてない。主な近代化の内容として戦車連隊、各種軍学校などの新設、それらに必要なそれぞれの銃砲、戦車等の兵器資材の製造、整備に着手しようとするのだが、具体策に欠けていた。
宇垣は早くから戦車の開発に取り組んでいた正平に目を付け、陸軍の近代化を目指したかったのだ。
「分かりました。戦車の開発は急務を要することです。是が非でもこの手で実現したいです」
「うん。頼む。それでよかったなら君も私の仲間に加わらないか?」
今では、宇垣は山県から続く、陸軍長州閥を率いる立場にある。山県は日本陸軍創立時から関与し、西南の役、日清戦争、日露戦争を巧みに率いて陸軍の近代化に力を注いだ。それと同時に陸軍上層部を山口県出身者で固めることもした。宇垣の上司だった田中儀一が山県の跡を継ぎ、そのまま長州閥は陸軍に君臨していく。その田中は原内閣で陸軍大臣となるが、シベリア出兵の失敗で非難を浴び、心労も重なり病に倒れ陸相を辞職に追い込まれた。そのまま大将でいたが、政友会から首相候補として党首に迎えられることになり、軍籍を離れることになった。当時の法律では軍人は政党に入ることが出来ず、入党するには軍籍を離れなければならなかったのだ。
田中の後に陸軍長州閥を率いる形になったのが、宇垣である。宇垣は岡山県出身で、山口県出身ではなかったものの、田中の下に付いたことから長州閥に入ることになった。これをきっかけに出世の道を掴み、陸軍大臣となり、長州閥も率いるようになっていた。
宇垣の仲間にならないかと言うのは長州閥への誘いに他ならない。
「ええ、入ります」正平はあっさり同意する。
宇垣が長州閥に正平を誘ったのは、軍縮への軍内部の反発を少しでも和らげたいからに他ならない。軍縮によって3万4千もの将兵が削減されるのだ、その抵抗はすさまじいものと考えられる。戦車の開発は陸軍内部の抵抗を少なくするものだ。そして、戦車の開発について、陸軍で最も研究しているのが正平と見なされていたのだ。正平に目を付け、勧誘したのはそんな下心がある。
一方の正平も長州閥への参加は悪いことではなかった。日露戦で負傷しながらも前線にいたことを山県に認められ、秘蔵子の扱いをずっと受け続けていた。当然長州閥にも加わるとみられていたのだが、何故か山県が入会を認めなかった。
これには訳がある。「塚田は無芸で大酒飲みだ。そんな奴を加わらせても面白くない」と生前、山県は口にしていた。
山県としては正平を長州閥に入れることで、山口出身者でない正平の立場が悪くなるとの考えもあったようだ。
「あいつは能力のある奴だ。長州閥に入らなくても伸びていける」山県はそう考えていたのだ。
ただ、正平も事情がある。山県が亡くなり、以前のような後押しは期待できなくなっている。このまま無派閥では陸軍で実力を発揮できず、新兵器開発の予算をとりにくいと考えていた。宇垣の提案は渡りに船だった。
そのまま、正平は宇垣に近づきながら、戦車開発に注力をしていく。
ただ宇垣の軍縮は震災の復興費を捻出するものだったが、大きな波紋を生むことになる。一度に大量の将校の首を切られて、陸軍内部に反宇垣の機運を招くもとになる。このことが後に大命を受けながらも宇垣が組閣に失敗し、総理大臣を諦める要因になるのだがそのことについてはまた話す。
このような時に、26年12月大正天皇が崩御された。




