61話 連盟と軍縮
明けましておめでとうございます。
大晦日は休みましたが、これからもなるべく欠かさずに毎日投稿していくつもりです。
本年も私のつたない文章をお読みいただければ幸いです。
話は少し遡るが、19年にヴェルサイユ条約が締結され、新たな体制が築かれた。
大戦中の18年1月アメリカ合衆国大統領ウッドロウ・ウィルソンは「十四か条の平和原則」を発表し、国際的平和維持機構の設立を呼びかけた。これが前提となり、パリ講和会議では連盟設立が討議され、講和会議後に締結されたヴェルサイユ条約など各条約が批准され20年に連盟は成立した。原加盟国は42カ国で、イギリス・フランス・大日本帝国・イタリアといった列強が、常設理事会の常任理事国となり、26年にはドイツ国、34年にはソビエト社会主義共和国連邦も加盟と同時に常任理事国となり、加盟国数が60カ国までに達した。
しかし提唱者が大統領であるアメリカ合衆国自身は、モンロー主義を唱える上院外交委員長などの反対により各講和条約を批准せず、その後の政権も国際連盟には参加しなかった。モンロー主義者は『戦争を行った国家は、ほかの連盟国全てに戦争行為をしたとみなし、連盟国に制裁として軍事行動を義務付ける』という条文を嫌い、他国同士の紛争にアメリカが巻き込まれることを危惧して反対に回った。
大戦後、イギリスに代わり、世界はアメリカを中心に動くようになっている。英仏は戦争で力を使い果たし、ドイツ、オーストリアも敗戦国となった。ロシアはソ連となって革命に揺れている。ヨーロッパ列強にはかつての力をすでに失っていたのだ。
代わりにアメリカは戦争による特需で経済がますます発展し、戦争が終わった時点で世界の中で、経済面でも、軍事面でも圧倒的な地位を占めるようになっている。そのアメリカが世界連盟に加わらなかったことは連盟の暗い将来を予測している。国際連盟は大きな欠陥を抱えたまま成立してしまった。
それでも連盟は25年に起きたギリシャ・ブルガリア紛争において両国に即時戦闘停止を命じ、両国は従わざるを得なくさせるなど一定の役割を果すのだが、小さな紛争では力を発揮できても大国が関係する争いには限界を見せてしまう。
そして、脱退する国も出てくる。25年にはコスタリカが、連盟運営分担金の支払が不可能になったために初めて脱退し、翌26年にはブラジルが常任理事国参入に失敗したのを機に脱退する。更に満州国が承認されなかった大日本帝国、またナチスが政権を掌握したドイツが脱退し、第二次エチオピア戦争でエチオピア帝国に侵攻したイタリア王国が脱退するなど、枢軸国側からの脱退が相次ぎ連盟の役割は失われていくことになる。
アメリカは連盟に加わらなかったが、その反面ワシントン会議で軍縮を呼びかける。21年11月から翌年2月までアメリカの首都ワシントンで初めての国際軍縮会議が開かれることになった。連盟が賛助しない形で、太平洋と東アジアに関係する日本、イギリス、アメリカ、フランス、イタリア、中華民国、オランダ、ベルギー、ポルトガルが参加し、ソ連は招待されてない。
全参加国により、中華民国の領土保全、門戸開放、新たな勢力範囲設定を禁止する九カ国条約が締結される。また、日本は中華民国に山東省、山東鉄道を還付することになり、山東半島や漢口の駐屯兵も自主的に撤兵することになった。
そして、日英同盟は、イギリスにとり、ロシア帝国とドイツ帝国が消滅したため無用となり、英米関係にも好ましくないため、解消された。
この会議はアメリカ側の大戦の間に力を付けた日本への警戒と封じ込めを狙う側面がある。
日本はそんなアメリカに対し、次のような考えで臨んでいた。
・海軍条約を英米と締結する
・満州とモンゴルにおける日本の権益について正式な承認を得る
の2点だ。その他にも太平洋におけるアメリカ艦隊の展開拡大に対する大きな懸念や、南洋諸島・シベリア・青島の権益の維持する目論見だった。
しかし、日本政府から代表団への暗号電をアメリカに傍受・解読され、日本が容認する最も低い海軍比率を知られ、譲歩させられてしまう。
米・英・仏・日による、太平洋における各国領土の権益を保障する代わりに、太平洋諸島の非要塞化などを取り決める日英米仏の4か国条約が結ばれた。ここで日本は、主力艦保有率を米英5、日本3、フランス、イタリア1.67とするワシントン海軍軍縮条約が締結したのだが、日本は対米英6割を受諾せざるを得なくなった。
暗号電の傍受された日本の脇の甘さの結果だ。
これを日本国内で屈辱的と受け止められ、新聞各紙に激高する論文が多く載せられることとなる。
日本国内では条約への憤懣が相次ぐが、一応これで、世界的に軍縮が大勢となって海軍力の軍縮が主要国で協議され、成功した形になった。
この結果、アメリカ合衆国との衝突の可能性も当面無くなり、一方ロシアも17年に起きたロシア革命により、政治的混乱がまだ続いており、日本に脅威とならなくなっていた。これで直接大きな脅威を与える国は当面の間は見当たらない状況になり大きい成果だった。
国内では海軍が大規模な軍縮に着手している以上、陸軍としても議会の軍縮要求にまったく耳を貸さないでいることは許されなくなる。
陸軍大臣・山梨半造はついに軍備の整理・縮小に着手することになり、22年7月、「大正十一年軍備整備要領」が施行され約6万人の将兵、1万3千頭の軍馬が整理された。その代償として新規予算約9千万円を要求して取得している。山梨陸相としては緊縮財政に基づく軍事費の削減に応じるかたわら、平時兵力の削減と同時に新兵器を取得して、近代化を図ろうとするものであった。
これは正平にとっても大きな影響のあることだ。
「軍馬を削減するのは分かるとして、それに見合う新兵器の開発を考えているのだろうか?」疑問を持ちながら、新兵器についての情報に注視していた。
山県の死はそんな国内状況の時だった。




