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旭日に顔を上げよ  作者: 寿和丸
8章 出兵の問題
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60話 山県の死

ようやく長かったシベリア出兵の話が終わり、今回から新章です。

軍事オタクだった正平が少しずつ脱皮していく様子を語っていけたらと思います。

山県は生前こんな言葉を残している。

「後、3年は原内閣に任せよう」

原内閣成立には不満だった彼も、仕事ぶりには評価を与えていたようだ。

それだけに原首相が暴漢に刺され、亡くなったことに落胆した。その山県も、22年には息を引き取る。

高齢であること。長年持病を患っていたこと。4年ほど前にスペイン風邪になり、体力を落としてもいた。

そしてシベリア出兵や、皇太子妃の選定を巡り国民から非難も受け、精神的にはつらかったのだろう。肺炎になると克服する力はなかった。


正平にとって、山県の死は大きい。彼によって、正平は順調に出世でき、世の中の見方を変えてくれてもいた。

精神的には良子を失った時と比べ、落ち込むようなことはないが、「山県さんにはもっと生きていて欲しかった」のが本音だ。

遺影に向かい丁寧に別れの挨拶をして帰ろうとすると、同僚が声を掛けてきた。

「おい、塚田。山県さんを偲んでお別れ会をやるがお前も来ないか」

「一人で別れをしたい。俺のここに山県さんがいる。」胸に手を置きながら答える。

「冷たい奴だな」長州閥の同僚は吐き捨てるように去っていった。

大勢の中で山県さんの思い出を語るのも悪いことではないが、正平にはその心境になれなかった。


当時の新聞にはこんなことが書かれている。

「山県有朋元帥の国葬には、多くの者が招待され、弔問客用のテントも多く設置された。だが、弔問客は、ほとんど軍人政治家ばかりしかいなかった。一般人は家人や使用人などで、テントの多くは人もまばらだった。それに比して、日比谷公園での大隈重信公の国民葬には多数の一般客が参列し、公園ばかりか道にまで人にあふれた。山県閣下の国葬には『民』が抜けていた。」と随分揶揄した記事が載った。

「人の偉大さは、葬式に来た人の人数で決まるのではない」それが正平の気持ちだ。

山県は自由民権運動を弾圧し、軍部大臣現役制度を採用した。この制度によって首相は軍部の意向を聞かないと組閣できなくなり、軍事予算削減に手を出しにくくなる。またストライキ権に制限を加えるなど国民の反発を買うこともやった。これなどが国民から好かれなかった理由だ。また国民にはあまり関係なかったが、陸軍に長州閥を作ったのも、有朋の負の遺産だろう。これが、後々、軍部の派閥争いを生み、いくつかの事件を引き起こす要因にもなった。

「山県さんは国民から人気がなくても、やるべきことを立派に果たした。」

自由民権運動を弾圧したからと言って、全部が悪いと言い切れない。当時の運動には破壊活動を目的にしして運動をしていた者もいて、弾圧しなくてはならない面もあった。

「西南戦争の時だって、山県さんは西郷隆盛を最後まで尊敬していたし、情の篤い人だった」

討伐軍を率いたが、陰で何度か西郷に救いの手を差し出している。ただ、西郷にとって部下を見捨てることが出来ず死を選んだ。山県は西郷の死を知って号泣したと言う。

明治維新の混乱期、陸軍を率いて近代化を進め、内務大臣の時には立憲制度の導入を目指している。日露戦争で冷静に国際関係を読み解き、苦しい中で日本を勝利に導いた。

正平にとっては山県との出会いは日露戦争後でもあり、彼の後押しがなければここまでの早い出世もなかったはずだ。

「山県さんはロシアと戦争になるのを怖れていた」最後まで戦争に慎重だったと聞く。それだからこそ、上手く日本を勝利に導けたのではないのか。

「俺と会った時、『軍事馬鹿ではない』と評価された」あのころ、日露講和に怒った人々が日比谷公園近くの交番を焼き討ちまでした。正平は講和を正しいと言い、山県はそれを評価してくれた。


「山県さんの指導がなければロシアとの戦いで日本は誤った方向に行ったのかも知れない」今も正平はそう思っている。

シベリア出兵に山県は慎重だった。今思えばできるなら最後まで慎重姿勢を貫いてほしかった。そして出兵の状況が思わしくなると、山県は原首相に撤兵を促してもいた。

「出来ればもっと強く主張して、原内閣に撤兵を迫り、決断させて欲しかった。」それが本音だった。結局、原内閣ではシベリアから撤退できないまま今も続いていた。

「山県さん以外、もう決断させる人はいないだろうな」尼港事件で日本国民はロシア人そのものに非難を集めた。もう政治家は撤兵を言い出さない状況だ。

「苦しい状況で決断すると言うことは大変なことだよな」一人でそんな感慨を思っていた。

吉岡が東京に送り出してくれた時に、「決断できる人間になれ」と言ったのはこんなことだったのだろう。

「出兵を続けても、撤兵をしても国民から非難される。」もう誰も決断できない状況になっていた。

結果的に、高橋是清内閣、加藤友三郎内閣、清浦圭吾内閣に引き継がれても撤兵できなかった。

25年加藤高明内閣になって、ようやくソ連との国交が成立し、最後まで残っていた北樺太から撤兵して、シベリア出兵はようやく終わった。

18年から25年の7年かに亘り、日本は何の成果もなくシベリアから引き揚げたことになる。


「政治家と言うのは決断をしないとだめだ。その結果が良くても悪くても批判を甘んじて受ける決意が必要だ。決断できないようでは政治家に向かない」

シベリアからの撤退がすぐに決められなかったのは、政治家が世間の批判を怖れて逡巡したのが大きい。


明日は大みそかで投稿は休みます。

新年からまだ投稿を続けますので、よろしくお願いします。

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