6話 吉岡雄作(改)
この作品は私の妄想から生まれたもので、くれぐれも史実とは違うとご不満されないようにお願いします。正直作品の9割は私の妄想より生まれたものばかりです。それだけをご承知の上でお読みください。
正平の暮らしている町は伊豆半島の付け根の位置で暖流によって一年中暖かく、冬でも霜が降りず、また温泉地としても知られていた。吉岡雄作はここを気に入りこの地で保養生活を始めていた。
雄作が散歩から帰ってみると、宿の女中から来客が待っていると告げられた。
(はて、用なしになった私に客が来るとはどういうことだ)そんなことを気にしながら部屋に入ると、客の姿に驚いてしまった。
その雄作の目の前にいた客人は10歳前後の少年だった。
少年は粗末ななりをしていたが、継ぎもきちんと当てられ洗濯されており、挨拶や躾もなっていた。また正座してきっとこちらを正面から見据える姿勢には強い意志も感じられた。
「どのような用件で私の所に来た」簡単なあいさつの後、訪問理由を聞いた。
少年は流ちょうではないが、筋だって先日起こった外人とのいざこざを口にした。外人に対する周囲の大人たちの姿勢は誇りがなく、大人はへりくだりすぎている。
流石に父親と外人とのありさまをつぶさに言わなかったが、外人に対する大人たちの卑屈な態度に不満を述べた。そして外人に引けを取らない誇りある人物になりたい。この社会を外人にさげすまれないものに変えていきたい。そのために知識を身に着けて、立派な大人になりたい。是非、教えて欲しいと話した。
「お前は学校に行っているのだろう、どうして私に教わろうと考えた」
「今の学校には外人と堂々と話のできる教師はいません。偉い先生が宿にいると母に聞きました。それで、4日前から様子を窺っていたら、先生が外人と堂々と話されているのを見ました。先生の態度には外人に媚びる様子はありません。」吉岡は英語が堪能とは言えないが、ある程度の会話はできた。外人と話すときは正確な発音よりも、態度や表情を明確にした方が伝わりやすいことを知っていた。田舎の小学校の教師達では外人に及び腰で会話などできるものはいないことは容易に想像できる。
「お前はどうして大人達が外国人に頭を下げるのか考えたことあるか?」一通りの話を聞くと雄作は質した。
「外人が怖いからだと思います。蒸気船など外国の技術力は優れており、これを作りだした外国人を恐ろしいと思っているからだと思います」
「外国人を怖がっているから、大人たちはびくびくしていると思っているのか?それなら、どうしたら怖がらないようにできると考えるのか?」
「外国人に負けないことを示せればよいと思います。私は先生から教えてもらい、外国人に負けないようになりたいです」
「お前の考えは分かった。だが、私は健康を害してこの地で療養している。無理はできないが、夕方なら少しぐらいは教えてやれる」
正平が気になっていたのは謝礼金だった。いかに子供でも只で教えてもらえるはずがないと思っていた。
「そんなことは気にするな」とあっさり言われた。
後で正平が吉岡から無料で教授されるという話を聞いて、両親はびっくりした。ともかくもお礼だけはと母親が慌てて挨拶に行ってみると、「私は暇だから教えることにしただけです」と一言で済まされた。
吉岡は法務省の事務官で、将来を嘱望されていた。しかし30半ばに肺炎を患い、悪化すれば命にかかわると言われ、温暖で温泉地のこの町にやってきた。療養すれば健康になれると言われても、出世の道は諦めなければならない。少し鬱屈とした日々を過ごしていた時に、正平が現れた。こんな子供でも、世の中の不合理さを感じ取れるのか、吉岡は興味をかられ、この子なら将来、大物になれるかもしれない、そんな思いもして自分の持っていた知識を教えることにしたのだ。
(こいつは大物になる。私が出来なかったこともこいつならやれるかもしれない)
数日教えたことで正平の頭の良さ、探求心の強さに舌を巻いた。
吉岡は儒学者の家系で、論語や漢文の素養は当然あったが、文明開化で西洋の科学文化の高さに驚き、西洋の科学や学問・法律を学びなおしていた。留学経験もあり、外国の考え方も理解していた。だから吉岡の教えは儒学を離れ、実学つまり、社会の仕組み、科学、地理、数学、英語、そして専門の法律など現実に基づいたものであった。
「何故ということをいつも考えろ。意見を言うときは、理由を説明し、資料を揃えろ。意見は理由を説明し、資料を伴わなければならない。理由も明かさず、資料も出さない意見など相手にするな」
正平に只聞いて教わるだけでなく、なぜそうなるのかと問いかけた。正平は論理的な思考を叩き込められた。
「教えられたことをただ受け入れるだけではだめだ。どうしてそうなるのか、理由を考え、自ら学び取れ。」それを吉岡は口酸っぱくいった。
吉岡は敢えて子供の正平には難解なことでも教える方針だった。完全に理解できなくても一部だけでも分かれば、そこからは正平自身が学び取れるはずと考えていた。正平にとっては厳しい内容だったが、一日も欠かすことはなかった。学校が終わってから1時間をめどに教わっていたが、途中からは学校が休みの時は朝から勉強を見てくれるようになった。
吉岡自身も正平に教えるのが面白くなったと言える。
(こんな子供がここまで理解できるのか)ただただ驚くとともにこいつならもっと出来るはずと考えるようになった。
(いつか正平が日本の社会を導くものになってくれるのであれば、私はこの世に生まれてきた甲斐があると言うものだ)
(私が諦めたことを正平が受け継いでくれるのなら、私はいつ死んでも構わない)
その後、吉岡は伊豆の土地が気に入り、後に地元の中学校で教鞭をとるようになり、家庭を持ち、そのまま伊豆の地に骨を埋めた。正平は故郷を離れるまでずっと教えを請い続け、帰省するたびにも必ず吉岡のもとを訪れるほど生涯の恩師となった。