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旭日に顔を上げよ  作者: 寿和丸
8章 出兵の問題
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59話 日本政府への批判

原内閣が各国のシベリア撤兵の動きの中で、すぐに追随しなかったのは、「二人で出兵を進めて置いて、英米が取りやめたから、撤兵する」と言い出せなかったからだ。事前に英米が撤退することもあり得ると予測し、閣内や参謀本部から意見を募っていけば、これほど説得に手間取らなかっただろう。「撤退のために増派」と考えながら、撤退の意思をひた隠しにしていた原首相と田中陸相には、矛盾だらけというしかない。 

その行動にアメリカやイギリスから早速非難の声が上がる。自分たちからシベリア出兵を日本に促しておきながら、状況が不利になったら、さっさと撤兵し、そして日本が撤兵に手間取っていると非難する。本当に自分勝手と言おうか、どうしてこうも欧米の先進国はあたかも「正義はわれにあり」という態度がとれるのかと思う。ともかく欧米の変わり身の早さに原内閣は附いていけなかった。


もう一つ原内閣が撤兵に遅れたのは陸軍参謀本部を説得できなかったことだろう。

原首相、田中陸相が「撤退」を覚悟しながら、参謀本部に本心を告げられなかった。そのような態度でいたため、参謀本部や現地部隊はシベリア駐留継続と信じて行動してしまった。

順序を追って説明する。

コルチャークの処刑後、ポリシェビキがコルチャーコフの興した現地政府を次々と転覆させられていた。

日本が最も重視する沿海州では、ポリシェビキによる「沿海州臨時政府」樹立された。そしてウラジオではコルチャーコフ政府の極東最高司令官であったロザーノフ将軍を失脚させられ、ハバロフスクでもウスリーコザックを率いていたカルムイコフが追放される。

アムール州ではパルチザンが州都ブラゴヴェシチェンスクを包囲し、やむなく日本軍は撤退する。

満州では中国軍によって、ホルヴァートがやはり積砲された。

そのような状態の中で、アメリカ軍が撤退を完了した。

「アメリカ軍が撤退したら、過激派を叩いて摩擦の根源を一掃しなければならない」と考えていた現地日本軍にとって好機と映った。

沿海州臨時政府に鉄道沿線30キロ以内にパルチザンを入れさせないように、強硬に申し付けた。臨時政府はこれを受け入れ、交渉成立しかかったが、その前日にハバロフスクで銃声が鳴りひびいた。これに現地日本軍が応戦し、ハバロフスクでは市街戦となる。すぐに他の部隊も沿海州での鎮圧に乗り出す。

その結果ウラジオ派遣軍は武力で沿海州を制圧してしまった。

これは原首相も全く予想外事だった。原内閣と参謀本部の意思の疎通ができなかったための事件と言える。


そうした中、ソビエト政府はなかなか撤退しない日本に対し、外交交渉を求めて来る。

東では赤軍は快進撃を続けていたが、肝心の西で苦境にたたされていたのだ。20年初めのソビエト政府は南ロシアには反革命軍を抱えており、4月にポーランドとの戦争になってしまい、これ以上の混乱は避けたかった。西で戦争をしながら東でも戦いを続けることは出来ないと判断したレーニンは東に進む赤軍に進撃をやめさせた。

ザバイカル州では日本軍の支援を受けているセミョーノフが居座っていたが、日本軍は赤軍との衝突は望んでなかった。そこで現地シベリアから新たな構想が浮上する。極東に日本との間に緩衝国家を設けようとするものだった。レーニンの承認も得て極東共和国政府が樹立された。これを受けて原首相もザバイカル州からの撤兵を急がせる。

シベリアは一時的な小康状態となるが、10月にソビエト政府とポーランドの間に休戦協定が結ばれると、赤軍は再び攻勢を強める。日本と言う後ろ盾がなくなったセミョーノフは満州に逃げ延びるしかなかった。シベリアに最後に残った反革命軍はこれで終わる。


20年冬、シベリアでの目まぐるしいほどの動きある中、日本の政界を揺るがす事件が起きた。

アムール川の河口都市ニコラエフスクには金の採掘と漁業の町で日本人も350名ほど住み、日本軍も350名駐留し領事館もあった。冬になるとアムール川は凍り付き、陸の孤島になったところをパルチザンに襲われた。厳冬のシベリアで日本軍は孤立無援となり、街を離れてなんを逃れていた日本女性10名を除き、日本領事館に立てこもっていた日本兵は戦死し、領事一家も自決するなど、ほぼ全員殺害された。

この尼港事件と言われる惨劇は日本中に衝撃を与える。女性を始め子供まで犠牲になって、国民は憤る。

中でもたまたま勉強のために家族と離れて一人国内にいて、助かった領事の娘の言葉が人々の胸をうった。

「仇を討ってください」の声に日本国民が怒りで震えた。

「可愛い娘まで仇を討ってくれと言っているのに、何で政府は動かない」それは政府批判につながる。

この事件が決起となって、原内閣は撤兵をより言い出せなくなってしまう。それどころか北樺太などに出兵をして弱腰でないことを示さなければならなくなった。

また沿海州、満州、朝鮮に囲まれた間島処遇を巡り、新たな紛争も起きる。

その後、極東共和国も樹立されるなど似通った事態が繰り返されていく。


撤兵の動きはあるが、沿海州や北樺太からの撤退までは踏み切れなかったのだ。

当然日本はワシントン会議など国際会場で批判にさらされた。

国内では原内閣への批判も強まり、20年7月には内閣不信任案が提出され、否決されるが野党の追及は強まる。

野党の憲政会は「原内閣が進めたシベリア出兵でえたものはアメリカなどの列強の誤解、ロシア人の反発だけ」と糾弾する。

このようにして、シベリア出兵は撤退も決められないまま、新たな問題も発生していき、長引いて行った。

結果から言うと、原内閣ではシベリア出兵は解決されず、加藤友三郎内閣、清浦圭吾内閣に引き継がれ、25年加藤高明内閣でソ連との国交が成立し、最後まで残った北樺太から撤兵して、シベリア出兵は終わった。18年から25年の7年かに亘り、日本は何の成果もなくシベリアから引き揚げたことになる。


撤兵の動きはあるが、沿海州や北樺太からの撤退までは踏み切れなかったのだ。

当然日本はワシントン会議など国際会場で批判にさらされた。

国内では原内閣への批判も強まり、20年7月には内閣不信任案が提出され、否決されるが野党の追及は強まる。

野党の憲政会は「原内閣が進めたシベリア出兵で得たものはアメリカなどの列強の誤解、ロシア人の反発だけ」と糾弾した。

このようにして、シベリア出兵は撤退も決められないまま、新たな問題も発生していき、解決の目途が立たなくなっていた。


21年4月、原首相は東京駅で18歳の駅員に襲われ死亡する。

彼を襲った駅員は、襲った理由を尼港事件に怒ったからと言っている。また尊敬している親方が常日頃「原を切る」と言っていたからだと述べた。しかしその親方は「原を切る」と言うのは「そんな状況になれば自分の腹を切る」と言っただけで、暴漢の誤解だと主張。落語の様な話で、どこまでが本当か分からない。まして背後関係については分からずじまいとなっている。ただ世相が原内閣のシベリア出兵に批判的だったことは違いないだろう。


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