57話 反革命政権
47話で述べたように、日本軍は現地の反革命派を支援して、現地に親日的な政権樹立を目論んでいた。その祭り上げる候補として、セミョーノフやホルヴァートだったが、日本の思惑とは裏腹に別の候補が躍り出た。
コチャーコフはロシア帝国の海軍中将だった人物で、一時日本にも接近したことがあるが、ホルヴァートと意見が合わず、「全ロシア政府」に入り、海軍大臣になった。この「全ロシア政府」というのはロシア南部の都市サマラを本拠とした反革命政権で、主義主張の異なるものが集まってできたもので、内紛も絶えなかった。コルチャーコフはシベリア南部の都市オムスクで反旗を翻し実権を握る。これがオムスク政府と呼ばれイギリスなどの後押しもあって、急成長する。
オムスク軍は13万人にも膨れ上がり、18年12月にはモスクワに向けて進撃を始める。そしてウラル山脈西麓のウファを攻め落とす。この快進撃に日本政府も最初は冷淡な対応だったが、承認する。各国も次々承認していき、19年5月に日米英仏伊の5か国はオムスク政府に武器支援を決定した。
しかしここでコルチャーコフは躓く。ロシアは革命後の混乱から、生産活動は停止し物価が上昇していた。そこに徴兵と統制を掛けたのだ。徴兵を嫌えば令状なしの逮捕や裁判抜きの銃殺も行われ、住民のオムスク政府への信頼は一気に地に落ちる。
民心の離反による治安の失敗は日本の派遣軍の頭痛の種になっていた。19年9月にウラジオ派遣軍司令官は次のような書簡を日本に送っている。
「あらゆる職業や階級のロシア人を結集した『諮詢機関』を作り、議会政治への移管をする。その上で食料も足りないロシア人に、積極的に日本が援助する」と言う内容だ。やはり正平と同じような考えだ。
原首相にも「反革命軍は物資不足だから、住民を襲い、住民が過激派に走る」と直訴している。反革命軍に軍需品を与えることを提案し、田中陸相も同意した。
日本軍は治安の維持に追われていた。
だが、肝心のコルチャーコフは民心掌握に関心がない。
「私は赤軍を壊滅させる高い目標を掲げてきた。私は最高司令官であり、改革に興味はない」とまで言い放った。
民心掌握こそ、軍事的な成功を収める基礎であることを理解してなかった。
ここでソ連政府も反撃に転じる。
レーニンは東部に全力を傾けろと督励する。19年4月には「冬までにウラルを奪還しなければ革命が破滅するとまで言って、悲壮な決意を赤軍に示している。
赤軍は当初は人手不足に悩みわずか2万4千の兵力で、コルチャーコフに苦戦していた。それで、主要都市にいる動員可能な男性に「出征してくれれば、残った家族に食料品を与える」と言って呼びかけ、340万の兵をかき集めた。
5月にウファを巡る天王山とも言える大決戦があり、ここで赤軍が勝利した。
コルチャーコフは東に逃れ、オムスクからイルクーツクに拠点を移して体制の挽回をはかろうとする。ここでソ連政府が極東のポルシェビキに対し、ストライキを指示した。軍需物資を鉄道輸送だけに頼っていたコルチャーコフにとって、これは致命的だった。オムスク政府はほぼ瓦解に陥り、コルチャーコフは日本に支援を求めた。
ここで参謀本部は支援に前向きで田中陸相も増派を必要と考えたが、原首相は消極的だった。対米関係を考慮して、ロシア内戦の深みにはまるのを避けようとする。
原首相は「無用な出兵をして無益の犠牲をだせば、国民から非難される。バイカルの西に出兵するのは国民の理解を得られない。」と田中陸相を説得する。
代わりに田中には甘い餌をぶら下げた。シベリアへの増援を見送る代わりに満州に兵を送ろうと言うのだ。かねてより田中は満州の増派に意欲的だったし、満州まで兵を送って置けば、国境を越えてシベリアに行くのも容易と考え、妥協した。
内閣の不一致を避ける政治家ならではの原首相の判断だが、このアクセルとブレーキを踏むような政策が後々、シベリア出兵問題を長引かせることになる。
赤軍は東に進撃して、イルクーツクにも迫り、守備隊に反乱が起きた。
ここでウラジオの派遣司令官はチタにいる部隊に「イルクーツクの邦人保護」のために出兵を命じた。原首相や田中陸相も承認したもであったが、バイカルの西に派遣しない原則は破られた。
イルクーツクに入った日本軍は邦人がイルクーツク退去を見届けると撤退する。
その前後でイルクーツクでは混乱がまし、チェコ軍が裏切りコルチャーコフを捕まえ、赤軍に引き渡してしまう。12月、そしてコルチャーコフは銃殺された。これが誰の命令であったかは不明だ。
コルチャーコフの登場から1年して、西シベリアは様変わりした。一時、オムスク政府は西シベリアからウラルを越えてモスクワに進撃する勢いがあった。それがわずか1年で西シベリアは赤軍の手に落ちた。
この事態を受けて各国政府は対応に追われることになるのだが、その話は次にする。




