55話 日本兵の苦悩
19年になると、日本は反革命派のチェコ軍団、コザック兵と手を握り、革命政府打倒を本格的に行うようになる。だが、革命派は正面から対峙することを避け、各地に潜伏しながら、戦う道を選んだ。これがパルチザンだ。日本はこれに手を焼いた。
パルチザンは都市部を避け、村落を拠点にしてゲリラ活動をしてきたのだ。正規戦では日本軍と戦えないことを知る彼らは、鉄道から離れた森や村落に潜み、機を見て日本軍の手薄な所を攻撃した。そして住民も占領した日本軍には敵を抱いており、パルチザンは住民の協力を得て、各地に拠点を置いた。
日本軍もこれに手をこまねいてばかりはいなかった。拠点を見つけては潰そうとしていた。だが、拠点は住民の家や、物置などであり、これらを破壊することは住民の反感を呼ぶ。
シベリアの住民の日本兵への反感がパルチザンに協力を増やす。パルチザンの活動を高める。日本軍が住民の住居を破壊する。住民の日本軍への反感が生まれる。
この負の連鎖がシベリアの地で起こり始めていた。
前にも書いたがシベリアに出兵した日本兵は厳寒にも苦しめられていた。
10月になると、気温は零下になることも多くなる。
「1番寒い日が続く1月にはマイナス40度から45度にもなり、卵、野菜、肉、酒など水分の多い食物は全て凍る。行軍中に米の飯や、水筒の中の水まで氷る、から、パン以外は口に出来ない。また呼吸によって、出る水分で、眉毛や口ひげが凍り、更に寒くなると顎が凍って、話など出来ない。もし手袋を脱ごうものなら、10分もたたない前に手がしびれてしまう。手袋していても、少しでも破れたりしていれば、その部分だけ凍傷にかかる。耳と鼻の血のめぐりが悪いから、そのためいつも凍傷にかかる。また野外での睡眠はもちろん、長時間の停止も不可能」と報告されている。
その他にも、井戸が凍り水の確保が出来ない。日用品の不足もあった。
日本兵は戦いだけでなく、衣食住の全てにおいて悩まされていた。
正平は短い時間とは言え、シベリア出兵の現状を観察し、帰国してからも報告を受けていた。
「シベリア出兵では現地住人の協力に失敗した。逆にゲリラは住民の協力をうまく取り込んだ。これが日本軍の展開を難しくしている。
住民の協力を得るには、日本と協力すれば生活が良くなると言うことを実証しないとならない。
それには、何が効果的か難しいな」
事実、正平はこの時点で現地に派遣した軍隊と住民がどのようにすれば協力し合えるのか、具体的な方法を見つけ出せてない。
ただ、兵士の衣食住を改善するのは明確だった。
「まず、供給した衣服では防寒が十分とは言えない。もっと生地を厚くし、綿や羽毛を増やさないといけない。さらに、兵士が寒すぎて休憩をとれないようでは戦いにもならない。休憩用の設備や部材を考えないといけない。
携行する飲食物が凍りつくようではだめだ。保温できる水筒や弁当箱の考えないとだめだろうし、簡易に暖められるコンロなどの開発が必要になる。
軍隊の宿舎もお粗末すぎる。木材を組んだだけではシベリアの寒さをとても防げるものではない」
正平はこれらの課題を洗い出し、改善できるもの、改善が難しいものに分けていった。改善の困難なものが多かったが、衣服などには今すぐ行えるものがあった。軍服・手袋や長靴、帽子などもっと厚手にしたものを送れば、凍傷に陥る兵士は減る。それを提案して、左遷されることになった。
それでも気にもしてなかった。
「あんなことぐらいで怒り出すのは陸相も相当シベリア出兵の現状に気をもんでいたのだろう。その程度で怒り出すのもどうかと思うが、この際だ俺のやれることを進めていこう。丁度良い。厳寒でも兵士が活動できる衣食住を開発してやる」
最も先に開発に取り組み始めたのが、軍隊の宿舎だった。
「壁の内と外板の間に綿を入れれば、どれだけ断熱できるか実験する」
効果はすぐに確認できた。綿を入れた時と入れなかった時では差が歴然だ。
それでも問題点がより多く発生する。
まず壁の中に水分が溜まり、中の断熱材から腐り始めた。中には水分が溜まって、断熱できない事態が起こった。
「壁の外側から雨水が侵入します。内側からも人の呼吸などで発生する水分が、壁の中に入り込んできます。」
本当は実験用に宿舎を作って、兵士を居住させ、どんな問題が起こるか確認するつもりだった。それが壁1枚で試験しただけで問題山積となった。
「こういうことは、あり得ることだ。それを一つづつ解決してゆくんだ」部下たちにそう言って実権を続けさせた。
もっと考えなければならないことも多くある。
それは輸送手段だった。シベリアに出兵に反対だった正平の一番の理由が鉄道だけに頼る方法では、供給路がか細すぎることだった。
事実、シベリアでは鉄道路線のあるところしか管理下に置いていない。広大なシベリアの多くはゲリラが闊歩する地帯になっている。
「トラックを輸送手段にするしかない」その考えはアメリカ留学から変わっていない。
ただ、当時の日本では自動車はほとんど普及していない。
日本の企業で自動車に手を出そうとするところは皆無と言って良かった。三菱造船や石川島造船が外国の自動車を参考に数十台作っただけで、撤退している。
「日本で自動車を生産するようでなければならない」
それには外国の会社の協力を得る必要がある。正平の頭にはアメリカ留学で見学したフォード自動車があった。
ただ、それはまだ構想の段階だ。実行に着手する前に正平は新たな事態に関わるようになっていく。
シベリア出兵が新たな段階に入っていく。




