54話 スペイン風邪
もう一つの重要な出来事としてスペイン風邪の流行がある。
当時の世界の人口は18億から19億とされているが、このインフルエンザによって、亡くなった人は5000万から1億人以上とまで言われている。大戦により戦死した数は役530万だが、それよりも10倍以上の人が風邪により亡くなっていて、どれだけ病気が恐ろしいものなのか分かる。スペイン風邪は人類史上最悪のパンデミックであった。
世界大戦によって、スペイン風邪が引き起こされたのではないが、もし、たまたま世界大戦でなかったなら、人類はもっと早くにこの恐るべき病魔に気付いていたと思われる。発症元がどこかも未だに分かってないように、この病魔には秘匿され、忘れ去られた事実がたくさんある。戦争中であった当時では軍事情報の秘匿が優先され、兵士の健康にまつわることも一切秘密にされた。どこでどのような病気が流行っているかも全て隠された。「スペイン風邪」という名前自体、スペインが中立国で戦争状態でなかったことで、早い段階でインフルエンザの流行が知られたことによる。他の地域で、もっと早く、そして大規模な流行が起きていたにも関わらす、スペインが早くにこの風邪流行の情報を発信したため、不名誉な名前になっただけだ。
戦争状態は病気を流行らせる。例えば塹壕は地面に穴を掘っただけであり、ネズミや害虫も多く発生し、不衛生な場所だ。兵士と兵士は密着し、閉ざされた狭い場所において、かつ食事も豊かでない状況ではインフルエンザが一気に広まるのは当然だろう。戦争でなければ頑健な若者が次々と病魔に倒れはしなかったはずだ。そして、兵士は帰還する時、その病原菌を母国に持ち帰る役目を果たしていた。故郷で帰還兵はインフルエンザの危険なこともわからないまま多くの人に移していった。
「大戦」と「スペイン風邪」に因果関係は何もない。ただ、もし戦争なかりせば、風邪の流行はもっと抑えられたと言えるだろう。
日本では18年10月から流行し、20年まで続いて人口の4割以上2380万人が感染し、約39万人が死んだと言われている。その中には島村抱月、竹田宮恒久王などの有名人がいた。
そして正平の妻、良子もその犠牲になった。
良子は2人続けて男の子だったので、女の子が欲しがっていた。
そして、3年前に流産もしていた。
「あの子はきっと女の子だったはずよ。私、こんどこそ女の子を生みたいわ」
「もう子供はいいじゃないか?」正平は子供よりも妻も身を案じていた。
「ううん。あなたの子が欲しい、女の子が欲しい」珍しく良子からの強い要望だった。
そして妊娠したのだが、風邪の流行と重なった。
無事に女子を出産したが、良子の体力は病魔を払いのける力が残っていなかった。
産後の経過が思わしくなく、1週間経つと良子は高熱を出し、すぐに病院に入った。
病院では良子は高熱でうなされ続けることが多かったが、一時的に意識を取り戻すこともあった。
たまたま正平が看病していていると、良子が起きて目が合った。
「あなた。赤ちゃんは」余程心配なのだろう。
「大丈夫だ。元気にしている」
「そう。良かった」
「お前も風邪を早く治して赤ん坊をあやさなくてはな」
「ええ」にこりと微笑んだ。それが最後の会話だった。
それから間もなくして赤子も短い命を終えた。
正平は一度に大事な家族を二人も失うことになった。
良子は口数こそ少ないが、朗らかな性格で、彼女がいるだけで座を明るくした。
亡くなって妻のありがたさ、妻に頼っていたことを思い知らされる。
話をしてなくてもいい、傍にいるだけでよかった。
否、離れていても良子が家にいると思っただけで心が明るかったのだ。
「もう良子の声が聞けない」
(これを胸に穴が空いたというのだろう)喪失感だけだった。
後になって、正平はそのころの心境をよく覚えていない。
多分同僚や上司から心配され、励ましの言葉も受けたのだろうが、それにどう答えたのか思い出せない。
ただ毎日目の前の仕事に夢中で取り込んだ。
仕事をしていれば、妻のことを忘れていられるからだ。
それで何とか一日を過ごせた。
子供が2人いたのも良かった。10歳と8歳の息子達を見ると、父親の情けない姿を見せられなかった。
「俺は息子たちを立派な男にしてやる。親父のように、子供の前で御者にぺこぺこするような情けない姿をみせられない」昔の父親の姿を思い出しながら、強い姿を息子達に示しておきたかった。
「子供が成人になるまでは、良子。俺を呼ぶなよ」仏壇で手を合わせていた。
そうやって生きていくうちに月日は流れ、悲しみは消える。
多くの人が経験することだ。
スペイン風邪で亡くなってはいないが日本では、皇太子や弟殿下、そして原首相など多くの重要人物も病気になっている。山県も風邪に罹り、80の高齢なこともあって一時は危篤状態になるなど非常に心配され、政界を揺るがした。田中陸相は今後の政界の行く末を心配し、原首相は自身が病魔に侵されたにもかかわらず心配して見舞いに行くくらいであった。




