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旭日に顔を上げよ  作者: 寿和丸
8章 出兵の問題
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53話 ポーランド孤児

ドイツが講和を受け入れ、もう戦争を続けることはなく、シベリア出兵の理由もなくなったのだが、日本政府も他の諸国も直ぐに撤退しなかった。

何故、撤退しなかったのか。それにはそれぞれの国で理由が違う。

共通して言えるのは、各国の指導者にとり出兵には心理的な抵抗感がないが、撤退には失敗を認めなければならないという心理的な抵抗感があると言うことだ。

日本の政治家のように「出兵はロシア人の助けになる」と言うなら、撤退するとなればもう助けないと言うことになる。出兵して人道的に助けに行くのであれば、撤退はもう助けてやらないことになる。撤退を口にするのは出兵を主張したことの非を認めるようなものだ。政治家が撤退を簡単に口に出来ない理由の一つだ。

日本にはその他にもなかなか撤退できない事情があっただがそれは後述する。


1919年に、フランスパリのヴェルサイユ宮殿で講和会議が開かれた。その後の世界体制が決まることになる。

世界史的に見ればヴェルサイユ体制始まりは大きな出来事で、シベリア出兵は忘れ去られるほどの出来事だ。どのように会議が進んだのかまず述べるべきだろう。

それでもまだ、シベリア出兵はまだ終わっていない。出兵とヴェルサイユ体制は同時進行されることになるが、正平にとってはシベリア出兵が後に大きく影響してくる。シベリアに派遣した軍隊をどのように撤退させていくのかメイン話をする。


そのシベリア出兵に関わることを述べる前に、二つの重要な出来事がある。

ひとつはポーランドの孤児のことだ。

ポーランドはドイツの東に位置し、全体的に平野が多く、国名も「平らな土地に住む人たち」からきている。

ポーランドのスラブ民族の起源は定かではなく、1500年前ともそれ以前からとも言われ、小麦生産や森林での採取でこの地に住み着いた民族がこの地の始まりとされる。8世紀ごろにポーランドの諸部族が生まれやがて大連合に発展する。やがて強力な指導者が10世紀に生まれ、国家を形作り、10世紀には国民の多くがキリスト教に改宗して、ヨーロッパ文化圏の仲間になる。間もなくこの王国は外敵によって滅ぼされるが、11世紀になって次の王朝が成立する。ビャスト朝と言われるこの国は200年間続き、中央で最大の国にまで発展する。

12世紀中から13世紀末までこの国は分裂と混乱を繰り返す。やがて、ドイツ騎士団の侵入を許すが、優れた技術や文化も入手も出来た。そして14世紀になり再統一の機運が盛り上がり、大公プシェミスウ2世が領土の多くを王国に匹敵するほど取り戻す。しかし後継ぎがなかったこともあって、ハンガリー王がこの地を統べるようになる。そしてポーランド、リトアニア、ハンガリー、ボヘミアが連合していく。

14世紀末から16世紀中になるとポーランドとリトアニアの連合はヨーロッパ最大の国に数えられるようになる。文化芸術も盛んとなり、ポーランドのルネッサンスとも言われる文化もこのころ花開いた。ポーランドには栄光の時代があった。


国にも人間と同じよう、誕生し、成長期に入り、壮年期で絶頂を迎え、やがて老年期で衰えていくのかもしれない。

ポーランドは18世紀なると400年続いた栄華も衰え、国力が急に落ちてしまう。

しかも隣接している国はドイツやオーストリア、ロシアの列強国だった。次々と領土を削られてゆき、そして国土は3分割され、国民は隷属されてしまった。

ポーランド国民は何度か立ち上がるが、そのたびに押しつぶされた。

ショパンは1831年に練習曲ハ短調作品10-12を書いている。これはロシアによってワルシャワ侵攻されたことをショパンが怒りに任せて作曲したと言われた。これは後世の作り話だと言われるが、『革命』とも言われるこの練習曲には思いを馳せるものがある。鍵盤をたたきつけるような演奏が怒りの表れと感じるのは私だけではないだろう。


数多く起こったポーランドの独立運動、それに手を焼いたロシア帝国は独立運動するポーランド人を政治犯としてシベリア送りにしていた。その数は詳しく分からないが、1863年から翌年にかけて起きた「一月蜂起」では8万人がシベリア送りになったと言われる。それを追って、恋人や家族もシベリアに向かっており、そして多くの子供が生まれた。

ロシア革命が起きると混乱し、物資が行き渡らなくなる。そして不足した物資を巡って争いになり、最も悲惨な目に遭うのが、弱者であり、その子供たちだった。

1918年11月にはポーランドは120年ぶりに独立でき、ウラジオストックにいたポーランド人中心にシベリアの子供を救済しようと組織が立ち上がった。彼らはシベリアの村々を廻り、片親だけ孤児となった子供を集め、ウラジオに集めた。しかしここで問題に直面する。アメリカに渡ったポーランド人を頼りにアメリカに子供たちを送ろうと考えたのだが、すでにアメリカは撤退を決め、アメリカ赤十字社はウラジオでの活動をやめていた。アメリカに渡航する手段が見つからなかった。他の国でもポーランド孤児に手を差し伸べるはなかった。

孤児救済会長だったポーランド孤児救済会長だったアンナは意を決して日本に渡る。そこで彼女は外務省や日本陸軍に子供たちの惨状を切々と訴えた。外務省は日本赤十字社にこのことを伝え、孤児救済を依頼する。それからは赤十字社が主体となって、孤児救済に動き出した。

まず、陸軍が乗る運搬船にウラジオからの孤児を同乗させ、敦賀に運ぶ。その後、東京と大阪に分かれて、収容されるがここでいくつかの逸話が残っている。

例えば、大阪の赤十字社には多くの義援金や物資が届けられていると記録されている。その中には、兵役中なので子供たちに励ましにいけないが金を送って来た兵士や無料で一日かけて75人の子供の散髪をしてくれた理容師の記録が残っている。東京ではほとんど全員の子供が腸チフスに罹り、手厚い治療を受け全ての子供が治癒できたが、懸命に介護した看護婦が一人なくなってもいる。

この活動によって約800名のポーランド孤児が祖国に無事帰還することができた。横浜港から祖国に向かった子供たちは別れの挨拶に懸命に「君が世」を謳っていたという。


ポーランド政府は25年に孤児の救助に当たってくれた日本軍人に感謝のしるしに勲章を贈っている。

また後の話になるが、日本はヨーロッパの情報活動を行う時に、まず、ポーランド人の協力を受けるようになる。

ポーランド孤児を救った日本人の行為が思わぬ展開を生んだのだ。


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