51話 左遷
正平はシベリア出兵においては軍事物資の調達輸送を受け持っていた。国内本土にとどまらず、台湾、朝鮮や満州などにも足を運び、原料資材の調達に問題ないか視察も行っている。そして現場の状況をたしかめるべく、シベリアに派遣された部隊を見て回った。
その中で、兵隊の置かれている環境があまりに厳しいこと感じた。
正平は日露戦争では旅順で冬を経験している。だが、シベリアの寒さはその比ではなかった。旅順は海に面しており比較的暖かかったのに対し、北満州やシベリアの冬の寒さは氷に周りが覆われているようなものだった。国内にいては全く想像もつかなかった。
「実際に経験しないと分からないことだな」
冬の満州で野外において立ちしょんすると、そのまま氷の棒になって地面から立つとまで言われた。人間の体温は37度あり、尿もその温度で体外に出るのだから、流れ落ちるわずかな時間で氷になるなんてありえない話だ。ただ、実際にシベリアで冬を経験するとそれが嘘と思えなくなるほどだった。
「兵隊の野営は想像以上にきつい。これを何とか改善してやらないとならない」
外気だけでなく底冷えする寒さは寝ることもままならなくなる。
凍えた足先が暖まるまで、寝袋の中で眠りに付けない。それに体温が下からどんどん奪われていくようで眠れない。
「この環境をなんとかできないか」そう考えてしまう。
シベリアの大地は氷の上の様なものだ。地面を少し掘れば氷になっている。
地面からの冷却を遮断しなければ解決できない。
正平には腹案があった。以前アメリカでは綿、おがくず、トウモロコシ、古紙などを細断して外壁と内壁の間に敷き詰めて断熱材につかっていた。そんなものを入れたら、火事の時どうするんだという疑念がでたが、もし火事になり、壁まで燃え落ちる場合なら、中の物が燃えようが燃えまいが同じと説明された。
アメリカ人らしい合理的な考えだったが、一理あると思った。
「外気の寒さだけでなく、地面からの冷却されるのを防ぐには断熱材を使うしかない」綿などの燃えやすい物を戦場で使うのは危険だが、燃えにくくすれば断熱材になり、兵舎の暖房も相当改善できると考えた。
(これは今すぐ、行えるものではないが研究は続けるべきだろう)
「今の宿舎は仮設置だ。いつでも取り壊し、移動できるように作られている。
それだけ、簡便に作られていて、すき間風もある。
アメリカで建てられていたように、工場で床、壁、天井をあらかじめ作って置いて、現地で組み立てれば早くできるし、簡単になるはずだ」
考えられることはいくらでもあった。
そして日本に戻り、次のように提言した。
「シベリアの寒さで兵隊は凍えている。厚くした防寒着や手袋、寝袋、布団などをもっと送るべきです」
(今、シベリアの兵隊にしてやれるのはこんなことしかできない。)本当はテントなども改善してやりたかったが、それは無理だった。
(予算の制限がある以上、できるところで提案するしかない。)そう思って提案した。
だが、この提案が田中陸相の逆鱗に触れた。
「お前は俺のやり方にケチをつけるのか」
田中の怒りは少し異常だった。正平の要求はシベリア兵士の生活環境の改善であり、予算もさして増えるものではなかった。ただ、田中にとっては塚田に言われて事が癪だった。
「あいつは、俺の後釜を狙っている」
田中と正平とでは経歴に雲泥の差がある。歳も二回り近く違うし、田中が陸相なのに正平は兵屯の部長に過ぎない。大将と中佐では比べようもないのに、どうして正平を気にしたのかは山県の存在がある。
田中は陸軍士官学校、陸大を出て、日清戦争に従軍し、その後ロシアに留学し、ロシア正教にも入信するなど、ロシア研究に若い時から熱心だった。
日露戦争では満州軍参謀として児玉総合参謀を補佐した。戦後に山県に評価され、陸軍の長州閥として以後は順調に出世を重ねている。
陸相になれたのも山県の後押しがあったからだ。
しかし最近山県を煙たがるようにもなっている。
「なんで、いつまでも山県の爺さんからとやかく言われなければならないのか」そんな気持ちだった。
実際に首相だった寺内に対し山県を「御老人」と書いている。
寺内は同郷の先輩だし、敬愛していた。だからこそ気軽に何でも話せる上司だった。
その寺内は山県から愛想尽かしされて、首相の座を降りるしかなかった。田中としてはいつまで年寄りに振り回されるのかと思ったのだ。
山県が正平を可愛がっているのも田中には面白くなかった。
「塚田は山口出身ではない。それなのに仲人までしてやるなんておかしい」それはやっかみなのかもしれない。ただ、男の嫉妬は面倒なものだ。
田中は軍人として有能ではあるが、性格的に一本気な面もある。
それは日露戦争が始まる前から、「日本一のロシア通」を自称しながら、ロシアとの開戦を主張していたことからも分かる。
自分の意見を押し通してしまう。
その田中の強引な所が今回出てしまった。山口出身者でない正平が山県のお気に入りの席にいることが気に食わない。
「あんなうるさい奴は飛ばしてしまえ」正平は開発部に回された。兵器の開発なら予算も多く出るが、兵屯の開発では雀の涙だ。
正平は態よく左遷された形になった。




