50話 原内閣
初めての「平民宰相」として原の国民の人気は高かった。
明治政府は薩長土肥の出身者で占められ、幕臣や奥州諸藩のように最後まで明治政府に抵抗したものは排除され冷や飯を食わされていた。
そんななかで、朝敵呼ばわりされていた奥州の出身者が首相になれた。
それだけでも国民には快挙に見えた。
その上、原は貴族になるのを拒否している。「華族になり、多くの財産を残すことは子孫に有害である。その器量もない子供に爵位財産を継がせるのは、決してためになるものではない。災いになるだけだ」
国民は「平民宰相」に期待していた。
その原も内閣人事には相当な苦心の跡が見られる。
まず陸軍大事であるが、田中儀一を持ってきた。
田中はシベリア出兵の陰の仕掛け人だった。出兵に反対の原とは正反対の考え方をしている。
更に、欧米との協調路線を考える原にたいし、田中はアメリカを敵視していた。
これだけの考えの違いがありながら、原が入閣を請い、田中が受けたのは当然理由があった。
まず原は行政を遂行するには山県の力添えが絶対に必要と考えていた。元老と呼ばれ、原内閣が実現できたのも山県の承認があったからだ。
原は首相在任中の37カ月に小田原の山県邸に36回も訪れている。山県に一番ご機嫌伺いした首相とも言える。
その山県が陸相に田中を推したので、断れなかった。
それだけ山県の意向を重視していたととれるし、軍部との妥協を優先させたとも言える。
それに田中は出兵論者ではあったが、派兵に一定の枠は嵌めるべきと考えており、原はその点で協力し合えると見ていた。
一方の田中は、次の戦争には世界大戦の行方を見ても、国民の支持が不可欠と考えていた。戦争が総力戦になれば、軍需物資の製造や供給まで国民に頼らなければならない。その国民の支持を得るには政党の力が必要になってくる。
それに原が以前から山県に寺内内閣の軍備拡充計画が遅いと言っているのも知っていた。原となら軍備の拡大に協力を得られる。
そう考えた田中は政友会総裁の原と手を握ろうとした。
そして外務大臣には内田康哉を選んだ。
原はまずシベリア出兵に共に反対した牧野伸顕に頼んだのだが、断られた。
そこで内田を起用した。彼は外相の経験もあり、ロシア大使をしていて、早くからソビエト政府を高く評価して、日本政府に承認するように具申していた。
ただソビエト政府に弱腰と映り外務省内では評判は悪かった。
革命直後に帰国の際には、レーニンやトロツキー称賛して、当時の後藤外相のご機嫌を損ねている。
原の見立てでは外務省内には出兵賛成派が多く、反対派は内田しか見当たらないのが現状のようだった。
そして原と内田は農務省の役人として机を並べたことが有る。旧知の間柄で、それだけ信頼していた。
原内閣がまず取り組んだのが、シベリアに派遣した兵士の削減だった。
田中と協議して、バイカル湖の西には軍隊を送らないことで一致し、閣議決定をする。
加えて、シベリア駐留兵力を1万4千人削減も閣議決定する。
それでもアメリカは多すぎると批判し、ウィルソン大統領は日本に経済制裁をちらつかせもしてくる。
アメリカと太いパイプのある金子堅太郎が駐日アメリカ大使に「前の内閣でシベリア出兵をしたのは失敗だった。原内閣はシベリア駐留兵力の削減に取り組んでいる。軍部の抵抗が強く、説得に時間がかかっているが、政府の努力を認めて欲しい」と事情を説明した。
その後さらに、シベリアの兵力を2万6千人に削減すると決定する。
これは勿論田中と協議したことで、田中は「チェコ軍団は既に救出してあり、要所は既に抑えているので、兵力削減しても問題ない」と考えていた。
しかも彼は参謀本部への事前根回しもせずに削減に応じている。
「参謀本部には後から話せば済むことです」田中は強気にも言っていた。
これだけの兵力削減にアメリカも一定の評価をしている。
原内閣の最初の出だしは結構うまく行っていた。
だが、政府方針に軍部が逆らう姿勢はこの頃から見え始めていた。
シベリア駐留兵力の削減は治安を預かるシベリア駐留兵の負担を増す結果になる。
そして、現地の治安は必ずしも楽観視出来ない状態だった。
当時の日本の政治家は国民に「シベリア出兵はロシア人を助ける、人道的なものだ」と広言している。
人道的という言葉は昔からよく使われているが、それは一方からの見方に過ぎない。他方から見れば人道的どころか、悪逆非道になることがよくある。
このシベリア出兵にもそれが言えた。
現地のロシア人にとって、外国兵は侵略者にしか映らない。日本軍は災厄そのものと考えられた。
日本軍は革命政府に反対する勢力と手を組み、革命政府を攻撃するが、革命政府はパルチザンを組織して抵抗する。
革命家たちは日本軍とまともに戦うことを避け、各地に潜伏しながら日本軍の隙を伺っていた。
日本に支配されて憤った住民は革命家に協力を惜しまない。
シベリア各地にパルチザンの根拠地が築かれていた。
田中を始め日本政府も、そして参謀本部もこの動きを掴んでいなかった。




