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旭日に顔を上げよ  作者: 寿和丸
7章 シベリア出兵
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49話 バイカルへ進軍

当時の日本には21個師団がある。大島陸相はシベリアに半分の11個師団を送ると提案したが、政府は1万2千人の派兵を決定する。これはアメリカから見て日本が大量の兵を派遣するのは、別の思惑があると疑念を与えかねないと配慮したものからだった。

アメリカは英仏の要請を日米小規模の派兵だけで応じようと提議してきた。1万2千という数はアメリアの7000人派遣にぎりぎり釣り合う数であった。

それでも石井米大使はアメリカ国務次官を訪れ、「チェコ軍救出のためにウラジオ以外の地域に日本軍を派遣するかもしれない」と口頭で言っている。

上原参謀長などは「チェコ団救出は表面のみで、ロシア東部の治安を維持して利権を確保できれば、各国への強い外交カードになる」とまで言っている。

軍人の寺内首相から、陸軍大臣、参謀長までアメリカに応じて、派兵数や派遣地域について決める必要はないと考えており、アメリカの提議を軽んじる風潮があった。これが日米の軋轢を生む要因にもなって来る。


ウラジオには8月3日にイギリスが上陸し、続いてフランスも上陸した。その後にアメリカも上陸している。

日本は兵を2分して上陸させた。更に現地邦人には日の丸を持たせず、静粛な雰囲気で出迎えるようにさせている。それもアメリカを刺激させないためだった。

ただ、一度たりと上陸させると、陸軍は次々に増員させていた。

18年秋の時点で、アメリカ9000、イギリス7000、中国2000、イタリア1300、フランス1300、カナダ若干数を上陸させていたのに対し、日本は5万8600である。日本が突出していた。

ウラジオからストックに上陸した日本軍は、北上して9月6日に沿海州の州都のハバロフスクを占領し、その後はアムール川に沿って西に向かい、アムール州を占拠した。


その一方で日本は満州から軍をマンチョンリに進軍させようとしている。ウラジオストックでは連合軍との協調に基づいて行動しているが、満州方面は単独で行った。

北満州にはザバイカル州に攻め込んだセミョーノフが逃げ帰っている。マンチョンリに戻ろうとするが、そこには中国軍が待っていた。自国領に勝手に本拠地を置かれ、勝手な行動をしているセミョーノフを中国軍は面白く見ておらず、逮捕しようと待ち構えていたのだ。

苦境のセミョーノフを助け、ともにザバイカル州を占領したい参謀本部はここで、中国を説得しにかかる。前に軍事協定を結んでいたこともあり、日本軍の北満州の活動を認めさせようとしたが、中国は同意しなかった。

それで、中国軍の1個師団を出動させ、その参戦費を日本が供出する形で合意をとった。この合意をとる前に日本軍はほぼ、南満州で出動待機をしており、実に見切り発車に近い形での派兵だった。


ザバイカル州に進軍した日本軍だが、閣議決定を待たずに中ソ国境を越えている。9月6日にはセミョーノフやチェコ軍団と連携してザバイカル州の州都のチタを占領した。9月22日にはシベリア鉄道を東に進み、ハバロフスクから西に進軍してきたウラジオ上陸軍と合流している。

こうして、チタから東の鉄道沿線は日本軍と各国軍により制圧され、各地の反革命軍は息を吹き返す。

ただ、日本軍の行動は当然アメリカの反発を生む。

アメリカはシベリア出兵をウラジオ周辺に限定して提案していたのだから、日本との間に亀裂が生じたのは致し方なかった。


寺内内閣はアメリカとの合意を無視しながら、既定方針通りに占領政策を進めていた。

第一次世界大戦の教訓から、長期戦で総力戦になるのを覚悟しながら、開戦すると同時に多方面から進軍して短期間で制圧する方針だった。

チタに第三師団、マンチョンリに第七師団、ハバロフスクに第十二師団が置かれ、ウラジオストックには派遣軍司令部を置き、以上を統括している。

更には重要な都市には歩兵指令部が置かれ、上陸から2か月でほぼ制圧は完成した。


順調な出兵とは裏腹に寺内内閣の寿命は尽きていた。

国内では米騒動が広がり、出兵に伴う物資不足が物価の上昇を招き、国民の生活を苦しめた。

そして寺内自身が病気になったこと、さらに山県から愛想尽かしされたことも痛かった。

山県は寺内の出兵に伴う言動不一致にあきれ果て、無能とまでののしり見限ったのだ。

そして遂に寺内は首相の座を明け渡す。

そこで後任を誰にするかで、山県と西園寺の二人が話し合う。山県は政党人の原を面白く思ってなかったが、西園寺は原を推す。山県には適当な候補者がいなかったので、西園寺の意見が通った。

ここに明治政府により朝敵呼ばわりされた奥州諸藩出身者で、官僚として育成され、初めて「平民宰相」が誕生した。

平民宰相と言うのは原が貴族に列さられるのを拒否し、平民のままだったからだ。


ただ、原内閣も思うようにはならなかった。

彼が無能ではなく、当時の首相の権限が弱く、内閣一致の原則が強すぎたからだ。

この法体制で原内閣も徐々に行き詰まるのだが、それは後の話になる。



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