47話 ウラジオ上陸
こうした世論の中で日本の陸軍と海軍は独自にシベリア・極東で活動を続けていた。
17年11月にウラジオストックではソビエト政府が市内の全権力を掌握したと発表している。これを受け日本領事館は軍艦の出動を日本海軍に要請した。海軍は領事館からの要請あれば、海外邦人を保護すると義務付けられており、直ちに作戦計画が練られる。
ここでイギリスが動く。なかなか腰を上げようとしない日本政府への揺さぶりからか、香港からウラジオストックに巡洋艦の派遣を決定する。
これに寺内首相が日本への挑発と見て、軍艦の派遣を決定し、18年1月には入港させた。
名目は「現地居留民保護」だった。ただ無断で軍艦を入港したのだから、ソ連政府への明らかな主権侵害である。当然ソ連政府から猛抗議を受けるのだったが、派遣された将兵は意に介していない。
日本政府も彼らも、同じころに入港したイギリス、アメリカなどの外国艦船の動きには神経を使っていた。
3月になると市内のポリシェビキ(社会主義者)の活動が目立つようになり、海軍は邦人保護のために上陸を進言するが、アメリかなどの出方を伺う政府は却下する。
そして市内で貿易商を営んでいた日本人3人が死傷する事件が起きる。現場では現地領事館とも協議し、陸戦隊2個中隊(500名)を上陸させ警備に当たらせた。これにイギリスも続いて50名を上陸させる。
この現場の判断は少し軽率だった。報告で、日本政府の許可も得ずに行ったことに、寺内首相は激怒しすぐに撤兵を命令した。ソ連政府は上陸に敏感に反応し、レーニンはウラジオ港の貨物を西シベリアへの輸送を指示するが、日本兵の撤兵で実行はされなかった。軍部現場の暴走の兆しが現れ、それを政府首脳が辛くも抑えることが出来た。
日本陸軍の出兵への動きはもっと急だった。
この時の陸軍大臣大島は「日本はシベリアの穏健分子を独立させ支援することが最良」と考えていた。参謀本部長の上原と次長の田中儀一も出兵を推し進め、ロシアを担当する第一部長宇垣一成はシベリア鉄道の占有までをも主張していた。
首相の寺内、参謀次長田中、部長の宇垣は山県から続く陸軍の長州閥で、彼らが陸軍を牛耳っていく。そして田中は後に首相となり、満州事変で大きな役割を果すことになる。彼は大戦でヨーロッパ各国が忙しい間に、大陸への足掛かりを伸ばすためにも出兵すべきとも主張していた。
陸軍は田中の指導で18年3月には次のような計画案をまとめる。まず、バイカル湖より東のロシア領と北満州を占領し、ロシアの「穏和派」を支援して極東の治安を維持する。このために第一軍を沿海州に、第二軍をザバイカル州に送りこむ計画案だった。
またこのころに日本は中国と軍事協定を結んだ。日本が単独で出兵するよりも中国を巻き込んでおいた方が、日本だけよりも都合がよいと考えたのだ。これには山県の意向が強く反映されている。この協定で日本はザバイカル州とアムール州を、中国は中部モンゴルから東シベリアを指揮していく内容だった。これにより日本はアメリカからの意向を気にせずに行動できる名分を手に入れたことになる。
陸軍はまた14年に鉱山技師に化けた軍人をザバイカル州に派遣し、現地情報を得ている。更に18年には予備役の軍人をイルクーツクに派遣して、特務機関を作ってもいる。参謀本部は現地工作も進めさせ、将来の「親日政権」を担えるような現地の人材を発掘しようとする。中島少将に、ロシアの有力者に接近して、極東に穏健な自治国家の樹立を促す、宣伝工作を命じる。
中島はまずハルピンに行き、ここで中東鉄道の責任者ドミトリー=ホルヴァートに会う。中東鉄道は、中国東方鉄道の略で、シベリアの都市チタでシベリア鉄道から別れ、北満州を抜け、ウラジオストックまでを結ぶ鉄道で、アムール川やウスリー川のために大きく迂回する本線に比べ、ショートカットする利点があった。この中東鉄道はロシアが三国干渉で清国から手に入れた満州での鉄道敷設権により建設が始まり、1901年に完成し、日露戦争でも物資の重要な補給路にもなった。そしてハルピンは中継地点としてだけでなく、大連や旅順へと南に向かう満州鉄道の始点でもあり、満州の中心地でもあった。この中東鉄道が作られた時に、多くのロシア人技師が松花江沿いのハルピンに町を築いた。そして、中東鉄道の経営はロシア人に行われ、ハルピンの行政、立法、司法権はロシア人に握られていた。
ホルヴァートは工兵出身の陸軍中将で、ロシア各地の鉄道建設を指揮した後、03年にハルピンに赴任した。それ以来、彼は「ホルヴァート王国」と呼ばれるほどハルピンを繁栄させていた。
ここで革命後食料不足に苦しむソ連政府は穀倉地帯の満州、特にハルピンに目を付け、レーニンはポリシェビキに命じてハルピンを奪取させた。この責任者になったのが元教員で27歳のリューチンだった。彼はホルヴァートから譲歩を引き出すが、このやり方が性急だったのだろう。ハルピンにいた各国の領事館はソ連政府への権限移譲に強く反対した。27歳でリューチンでは経験不足であり、各国の領事館の反発を生み、中国政府によって捕えられ、シベリアに送り返された。ホルヴァートはそのまま権力を維持する。
この混乱を中島は利用して、ホルヴァートに接近する。内心では「極東には人物がおらず、決断も勇気にも乏しくて老獪ではあるが、ホルヴァートを支持していくしかない」思っていた。
この頃のシベリアは首都の革命の影響を受けて、各地で革命政権が起こっていた。アムール州の州都ブラゴヴェシチェンスクにも革命政権ができ、首班には機関士だったムーヒンが務めていた。中島たちはガーモフ率いるコザック兵や日本人義勇兵を結集させて、反乱を蜂起させる。これは一旦成功してムーヒンを捕えたが、アムール川に停泊していたロシア艦隊の砲撃を受け、蜂起軍は中国領内に逃げ込んだ。
コザック兵はカザフ出身の騎馬軍団であるが、ロシア皇帝はこれを従わせ、ロシア各地に派遣していた。皇帝への忠誠に篤い彼らは革命政府には批判的だった。
また、マンチョンリにはセミョーノフ一等兵が率いるコザック部隊もいた。日本参謀は彼にも支援して、モンゴル出身者なども集めて、ザバイカル州の独立を目論む。セミョーノフは18年4月にザバイカルに攻め込むが、撃退されマンチョンリに逃げ帰る。
以上のように日本陸軍は親日政権を押し立てようと様々な工作をしている。
これに対して、山県はポリシェビキに宣戦布告するようなものだからと反対している。




