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旭日に顔を上げよ  作者: 寿和丸
6章 大戦
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45話 ロシアの退場

1915年から16年はヴェルダン戦、ユトランド沖海戦、ソンムの戦い、フランドル戦.など大きな戦闘が繰り広げられた。

ヴェルダンは26平方キロ、東京山手線内の半分に満たない場所で、「相手の顔が見える」と言われた接近戦が行われた。ドイツがフランスに攻勢をかけて始まり、両軍の死傷者は70万人を超えたが、ドイツは期待した戦果を挙げることも出来なかった。

ドイツはイギリスに北海を制圧され、経済封鎖に苦しめられていた。そこでドイツ海軍とイギリス海軍はユトランド沖で両軍合わせて150隻という大戦史上最大の海戦を行われた結果はイギリス側により大きな損害がでたが、ドイツは経済封鎖を解けなかった。

ソンムではイギリス側が攻勢を仕掛けた。170万発の砲撃をして、12万歩兵でドイツ軍を一気に追い払う作戦だった。ただ、ドイツ兵は縦深防御の塹壕を築いていて、砲撃には退避して、歩兵が来ると機銃を浴びせた。結局イギリスは大量の死傷者を出すだけとなった。

連合、同盟側双方に大きな損失をしながらも戦局が大きく変わることがなかった。

フランドルにはドイツが連合国に利用されるような施設を徹底的に破壊する焦土作戦を行っていた。ここにフランスは攻勢をかけたのだが、4万人の死傷者を出す結果になった。

以上の戦いでは詳細を述べないが、どちらの陣営の作戦参謀も大きな失敗をしている。それもどの参謀たちも思うように戦闘が有利にならないにもかかわらず、続行を命じていた。後に正平はこれらの戦闘を詳しく調べ、後の戦略を練る参考にしている。


戦況は互いに一進一退を繰り返し、どちらが有利になるか予断できなかった。ただ、どちらの陣営も国内には戦時統制経済により生活を苦しめ、終わりの見えない戦争の行方と相まって、人々に不満が口から出るようになっていた。特に世界経済から切り離されたドイツと国内が戦場になったオーストリア、ロシアに不満が高まっていた。

そして翌17年になると大きな変化が出る。ロシアで2月革命が起きる。

ロシアではラスプーチンに象徴する宮廷腐敗、ドイツ系王妃など国民の見る目は厳しかった。何よりも開戦以来、兵員動員数は1500万人に達し、これは動員適格者の4割を占め、しかも損失が3分の1までになった。そして国内の鉄道不備と軍事優先で必要物資が国民に渡らなくなっていた。

3月8日(ロシア歴では2月)に思わしくない戦況と食糧不足を不満に思った首都ペテルブルグの主婦たちがデモを立ち上げ、小売店からパンなどを略奪していく。これに待遇改善や平和を求める労働者、兵士もデモに合流した。労働者と兵士の代表者で構成されるソビエトが誕生した。ニコライ二世は退位し、シベリアで悲劇的な最後を迎える。

ロシア革命は起こるべくして起きたのだ。

帝政崩壊後樹立した臨時政府は戦争継続を掲げた。

これに対し、ドイツは攻勢をかけリガを攻略して、ペテルブルグに迫って来た。またドイツは亡命中だったレーニンをスイスから呼び寄せ、ロシアに送り込んだ。これはドイツ参謀がレーニンを帰国させることにより、ロシアとの戦争が有利になる判断からだ。

レーニンは民衆が「パン、土地、平和」を訴える声を聞いて、大戦から手を引く決意をする。

徐々に支持者を集めていき、10月になると帝国同士の戦争は無意味で即時停戦を主張する共産主義者が多数派を占めた(10月革命)

そして12月になると崩壊が進むロシア軍では抵抗できないと判断し、革命政府はドイツと単独で休戦協定を結ぶ。

ウクライナ独立、巨額賠償金など厳しい内容だったが、レーニンは受諾した。これによりロシアは「大戦」の舞台から退場する。


このロシアの退場が西部戦線で戦く連合国側に大きな衝撃を与えることになる。

東部戦線が崩壊すれば、ドイツは西部戦線に出力をぶつけてくる恐れがあった。

膠着していた戦争が傾く、それも悪い方に傾いてしまう。

その恐れがイギリス、フランスはロシアに新たな政府を樹立させ、再び、東部戦線の復活を企むようになる。

まずイギリスはロシア北部の港町、ムルマンスクに兵を上陸させ、貨物を取り押さえた。

この貨物はイギリスがロシア政府に送った援助物資で、それがドイツに渡るのを防ぐという名分だった。

さらに日本海のウラジオストックの港に積み上げられている貨物の確保が急務となる。

ウラジオストックは1960年に開かれ、軍港と商港を兼ね、シベリア鉄道の起点でもあり、国際都市として大勢の移民も多くいた。

そして、当時連合国側からロシアに供給した武器弾薬が港に山となって積まれていたのだ。革命などの混乱で、シベリア鉄道も混乱し、西に送る貨車が不足していたためだ。その出兵にイギリスとフランスは余裕がなく、この役目を日本とアメリカに求めてきた。

ただ日米ともこの要請にはすんなりと応じなかった。

両国ともそれぞれ事情があった。

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