41話 日本参戦
日本の指導者はどちらが戦争の勝利者になるか意見が分かれ、参戦するかでももめた。
大隈内閣の加藤高明外相はイギリス側に付き、参戦するよう強く主張する。
「イギリスは我が国にドイツの巡洋艦の捜索と撃破を求めております。日英同盟の誼です。是非とも連合国側に加盟すべきです」
彼の狙いは勿論日英同盟を重視していたのではない。大戦に参加して日本が世界のひのき舞台に立てば、大きな発言が出来るようになると考えたからだ。
そしてイギリス政府からの要請を最大限利用する。
「イギリスはドイツの巡洋艦の捜索を求めているだけです。日本の参戦を飲んでいません」イギリス外相は自重を促していた。
ところが加藤はそれを無視して、内閣を強引に参戦へまとめ上げた。
こうして日本は8月にドイツに参戦することになった。
と言ってもドイツはアジアにはほとんど植民地を持っておらず、清国山東半島を租借して青島に基地を置き、南洋諸島を持っていただけだ。
当面日本がドイツを攻撃するとしたら、その対象は青島に駐留しているドイツ軍だけとなる。
青島とは膠州湾に浮かぶ島のことで、やがてその対岸にある半島の村落まで含めて「青島」と呼ばれるようになった。青島が島でないのにそう呼ばれているのはそのためで、ドイツはここを拠点において清国への勢力伸長を考えていた。
ドイツ青島への遠征作戦が開始される。
少佐に昇進したばかりの正平も従軍することになった。
記述したように国内統一が遅れたドイツは海外の植民地経営にも遅れ、イギリス、フランスに主な海外地域を押さえられていた。
アフリカに進出できた地点は南西アフリカだけで、そこは砂漠の広がる不毛な地で植民地経営には不適だった。
アジアにおいてもめぼしい所はほとんどなく、スペインから太平洋の海洋諸島を購入できたのが唯一であった。
そこで、混乱していた清国に目を向け、列強国の手が及んでいない山東半島進出を目論んだ。
ここで事件が起きた。山東半島でドイツ人宣教師が現地住民に殺害されたのだ。これを口実に軍隊を派遣し、ドイツは清国を脅し、1898年青島周辺の膠州湾一帯を99年間租借した。
この99年の租借と言う方式はドイツが編み出したもので、割譲よりはるかに穏やかなもので、この後イギリスやフランスも真似するようになる。例えばイギリスは香港を租借地にしている。
当時の青島は人口2000人の寒村で、周辺の山林は薪材として伐採されつくされ禿山となり、当然田畑も荒れ果てていた。ここにドイツは兵舎を設け、植樹し、市街地、桟橋を作った。
ドイツ人から見れば現地住人の住居は掘っ立て小屋同然で、不衛生その物にしかみえない。住民を追い出すとともに、住居を焼き払ってしまう。随分荒っぽい手段であり、当然住民は抗議するが、これを力で抑え込んだ。
ともかう、計画に沿った、ドイツ方式の街並みが作られていた。
この地を軍事拠点にしながら、鉄道の敷設、炭鉱開発をして、銀行なども開設しており、ほとんど何もなかった、青島は欧州風の市街地に生まれ変わっていく。そして青島が町としての体裁が整えられると、ドイツ本国からも職人も来るようになり、1910年ごろには町の人口は約5万人で欧米人が2000名ほど暮らす街になった。
日本が遠征軍を派遣した時、ここにドイツ兵4000人が駐留していた。
正平は参謀として、次のように発言している。
「旅順での拙攻を繰り返してはならない。ドイツの青島部隊は本国から離れ、十分な補給体制が出来ていない。ここに無暗に攻撃するより、補給路を断ってしまえばドイツ軍は根負けする。」
ドイツ軍の現状を読み解いての攻略だった。
正平だけの意見で決まったことではないが、日本軍は青島をじっくりと攻略することになった。
これに青島のドイツ軍は1カ月半の籠城の後、降伏した。
もともとドイツは現地住民の反乱を想起しての防衛構想しか持ってなかった。外国の列強国の艦船に攻められることなど考えずに防衛陣地を形成していた。
数でも兵装でも圧倒する日本軍に、抵抗する手段など持ち合わせてなどない。
抵抗らしい抵抗もなく、青島は陥落した。
正平は語学が堪能なことも見込まれ、ドイツ軍との交渉に立ち会い、そのまま青島に留まり、捕虜収容などに関わることになった。
この役は旅順でも務めたが、気を使うものだ。どうしても占領した者とされた者との反目は生じ、それが揉め事に繋がらないように考えなくてはならない。
ただ、青島では旅順攻略直後ほどの荒れ果てた感じでないのが幸いだ。
一つには旅順のロシア兵は戦略的な重要性を心得ていて、必死に守り抜く気概をもっていた。市街地を砲撃に曝されても降伏する気持ちがなかったと言える。
それに対して、青島のドイツ兵にはこの地が、戦略上の価値が低いこと、補給路を断たれると戦いの術がなくなると分かっていた。ドイツ兵には青島を死守する姿勢が最初からなかった。
このため、青島市街の雰囲気は「落城した」と言うよりも、「包囲から解放された」と感があった。
占領地の治安は平穏に進み、混乱したこともなく日本に権限が移行できた。
旅順ではロシア司令官が愛馬を乃木将軍に贈るとい儀礼的な儀式もなく、ただ単にドイツの陣容が解かれ、替わって日本軍が淡々と治めていった。
収容したドイツ人捕虜は日本に送られることになるが、日本国内においての影響は大きなものがあった。
日露戦争や第一次大戦でも愛媛県松山市は戦地で捕虜にした軍人の保留地となった。
この地でロシア兵もドイツ兵も国際法に基づいての待遇を受けたのだが、ここでドイツ兵の振る舞いが面白い。
音楽に素養のある兵士を集めて、楽団を組織したばかりか、交響楽を日本人に披露したのだ。
いまでは日本では除夜の鐘と共に聞くおなじみのベートーヴェンの「第九」だが、ここ松山の収容施設で日本初演されている。
また、神戸に移り住んだドイツ人がハムやソーセージを売り出して評判も呼んだ。
捕虜にされたロシア兵はこれほどの交流はしてない。
国民性の違いなのか、二つの民族に接した正平は面白いと感じていた。
青島占領と共に日本はドイツの持っていた太平洋の赤道上の諸島も抑えてしまい、日本の大戦の役割は1914年末にはほぼ終わっている。
「大戦」の舞台で日本は中央に出ることもないまま役を終えた。




