40話 大戦の流れ
オーストラリア皇太子の暗殺事件は前代未聞のことであり、オーストリアとセルビアの外交問題に発展した。
次の国王を殺されたオーストラリアは犯人をセルビア人と断定し、セルビアに強硬に抗議し、謝罪と多大な賠償を要求した。
セルビアとしても自国だけでオーストリアには対抗できないので、恭順の姿勢を示し、外交交渉に応じた。
そして他の列強国でも非はセルビアにあるとみて、オーストリアに同情的で、セルビアの譲歩を望む声が強かったのだ。
ただ少しオーストリアは強硬すぎ、セルビアは強情だった。
列強国のオーストリアに対しセルビアはまだ産業も発展しておらず、兵器製造もおぼつかない段階で、軍事力に大きな差があった。普通ならセルビア政府は外交交渉で皇太子暗殺の非を認めて穏便に済ませ、解決に向かうはずだった。
だがオーストリアはセルビアに賠償請求だけでなく、殺人事件の裁判おいてオーストリア官憲の参加まで要求してきた。セルビアにとって賠償は容認できても、オーストリア官憲の受け入れは主権を冒されるとしてとても呑めるものではなかった。
今の私たちから見ればオーストリアが過酷な要求したと思えるが、当時のオーストリア政府にとって過大とは思ってなかった。現在では国連や国際条約もあり、国として認められれば超大国であろうと、万分の一の小国でも同じ権利があると考えられている。しかし大戦前の列強国にとり小国の主権など取るに足らないと見ていた。「こっちの言うことを聞かなければ、潰してしまえ」それが列強国の考えだ。
そして双方の主張が余りに隔たった理由にオーストリアにはドイツが、セルビアにはロシアが後押しをしたことが大きい。
ドイツは戦争になればオーストリアの勝利は疑う余地はないし、戦争回避されてもセルビアが大幅譲歩するはずと考えた。そうなればセルビア国内に鉄道を敷設する権利も得られる目論見があった。3B政策が現実化できると思っており、オーストリアを焚きつけて戦争を起こさせようと考えていた。
ロシアはセルビアから泣きつかれたこともあり、更にドイツの野望が見え隠れしており、黙って、オーストリアの強硬姿勢を見ているわけにはいかなかった。オーストリアにセルビアが屈服すれば、ロシアが頼りにならないことを多くのスラブ民族に明かしてしまう。そうなればバルカン半島ばかりかポーランド、ウクライナ、ベラルーシなどの近隣地域のスラブ民族に対し盟主として示しができなくなってしまうのだ。
このようにしてオーストリアとセルビアの双方に強い後押しができて交渉は行き詰まった。
一月後、7月オーストリアはセルビアにしびれを切らして宣戦布告する。
続いて8月ドイツがフランスとロシアに宣戦布告し、直ちにベルギーに侵攻していく。
そしてイギリスはドイツに宣戦布告した。
ここに欧州の列強国全てが「大戦」という舞台に立った。。
戦いはオーストリアとセルビアの交渉決裂で始まったが、戦争の主役はすぐにドイツに代わることになる。
ドイツは戦前から周到に戦略を考えていた。フランス、ロシアと戦えば2正面作戦は避けられず、ドイツはそれを回避するために時間差攻撃を編み出した。
ロシアが広大な国土と未整備の鉄道網により、ドイツとの国境まで軍を進めるのは1カ月遅くなるだろうと考えた。その間にフランスを叩いてしまえと考えたのだ。
まず、フランス国境近くに8個師団を集め、フランス軍に警戒させ、集結させる。そして主力軍を中立国のベルギーを通過させ、パリ近くまで進撃してから転回して、大きく迂回させて、国境近くのフランス軍の背後を衝いて、せん滅しようと考えた。これに6週間あれば達成できると考えていて、その間は守備軍がロシア軍を食い止めて置き、フランスから戻って来た主力軍と合流すればロシアを打ち負かせると考えたのだ。
ただこの二正面作戦、時間差攻撃は最初から躓く。
まず、問題なく通過できると思っていたベルギーが通過を拒否した。そしてロシア軍の集結も予想外に早く半月近くでドイツとの国境に迫って来た。
それでもドイツ軍は強引に攻めてブリュッセルを占領し、フランス国境に進撃して英仏軍を迎え撃った。
8月から9月に攻勢を強め、パリを脅かすまでになり、フランス政府はボルドーに移転を余儀なくされた。
そこでドイツ首相は勝利を確信し、フランスとの講和条項を練るなどした。
だが、ドイツの快進撃もここから止まる。
前線部隊と後方の兵屯部隊の距離が130キロも伸びきって、補給が難しくなったのだ。
鉄道が寸断され、馬車に頼るしかなくなり、その上飼料も尽きて馬を走らすことも難しかった。
最前線の兵士は背嚢に30キロの銃弾薬を入れ、炎天下に25キロメートルの行軍を1月間させられた。これに電信に不慣れなこともあり、情報が錯綜して、大本営は全体像が掴めないことが加わる。
ドイツ軍はそれ以上の進撃が出来なくなくなる。
これに対しフランス軍は軍団・師団の司令官たち約90名を、攻撃精神不足を理由に更迭し、反撃体制を整えた。
9月5日から反撃を開始すると、ドイツ軍は退却した。「マルヌの奇跡」と呼ばれ、フランスは大きな勝利を得るが、このドイツの撤退は不可解なことも多く、誰が命令したのかも理由も分かってない。ただこの反撃もドイツを国境まで後退させるほどの成果ではなかった。
これ以降、戦いは相手の背後を突いて戦線を突破しようとする戦術に切り替わる。それは互いに相手の側面を回り込むことを競うことになり、戦線はどんどん伸びていく。そして互いに大きな損失を出しながら、フランドル地方に達してこの競争は終わる。
それ以降、両軍は塹壕の中に閉じこもり、ひたすら相手の出方を待つことになり、イギリス海峡からスイス国境まで750キロの塹壕が延々と掘り進められる。
ドイツ、フランス、イギリスとも主役になりきれないまま「大戦」という舞台は進展しなくなった。
ロシアはちぐはぐな役回りを演じる。
国内の部隊をドイツの予想よりも早く結集し、進撃してプロイセン国内に進撃した。時間差攻撃を展開しているドイツにロシア軍に対処できる部隊は残ってない。数で勝るロシア軍がドイツ軍を圧倒した。
ここまではロシアの素早い動きが目立ったが、電信の指令系統に暗号を使わなかったので、ドイツに読み取られてしまうミスをした。
情報が筒抜けになるのは、戦いでは致命的になる。8月末に、ロシア第二軍は行く手を阻まれ、包囲されてしまい、死傷者5万人、捕虜9万人をだして壊滅する。更にロシア第一軍も10万人の損失を出して、ロシア領に逃げ込む結果となった。
この勝利はドイツ国民にマルヌの敗退ショックを忘れさせ、勇気づけることになる。
以後ドイツ軍にポーランドへ攻め込まれ、専らポーランド内で戦いが行われ、ロシアはしばらく舞台の端で演じることになる。
オーストリアは開戦早々から誤算続きだった。電文を読み取ってロシアの動きを掴んでいたドイツに比べ、ロシア軍の動きが全く読めずガリツィア侵攻を許してしまった。慌ててセルビアに向けていた主力軍を呼び戻したが今度はセルビアで反撃を受けてしまう。残った後備主体のオーストリア軍ではセルビア軍に攻勢を跳ね返すことが出来ず、セルビアから撤退を余儀なくされた。ただ、勝利したセルビアも前線将兵の大半を失ってしまい、それ以上の戦闘は出来なくなっていく。この時点でセルビアは、『大戦』の舞台から降りた。
オーストリアはガリツィアに侵攻したロシア軍に反撃を試みるが失敗し、前線の三分の一も失い、ドイツに援軍を要請するはめになった。
ここでドイツとオーストリアに不信感が育つ。ドイツはオーストリア軍の作戦の稚拙さや将兵の練度の未熟さをなじり、オーストリアはドイツ軍の秘密主義を批判した。何度か協議して統一戦線を図ろうとするが、両者の不信感はぬぐえなかった。
一二月末にはオーストリアは国内の戦力が限界になり、『大戦』のメイン役者から傍観者の地位になった。
第一次世界大戦を「舞台」という表現で表しました。投稿しているとこの戦争が悲惨であるだけに、「何でこんなことを人類はしたんだ」という思いに駆られ、茶化さずにはいられなかった。
それを不謹慎と謗られても、致し方ありません。




