39話 バルカン半島の導火線
そんな風潮の中でも、バルカン半島だけが紛争の火種となって残っていた。
中世ヨーロッパはキリスト教会が強い権限を持ち、政治ばかりでなく、人々の日常生活にまで口を出し、科学知識への探求心も失われていた。ガリレオやコペルニクスが地動説を声高に主張できない時代だった。どちらかと言えばイスラム社会の方が、科学も発展し、文化も盛んであった。十字軍の遠征が失敗したのも、教会の硬直した姿勢が軍事面にも悪影響を及ぼして、遠征軍の疲労を増し、腐敗もさせていたのが一因だ。キリスト教社会がイスラム教社会を政治・軍事・経済・文化において上回ることになるのは、17世紀なってからと言えるだろう。それまではイスラム世界の盟主トルコ帝国の勢いにヨーロッパの国々は怖れていた。
そして19世紀になると、さしものトルコも力の衰えぶりを隠しきれなくなり、バルカン半島から次第に手を引いていく。
バルカン半島にはスラブ系民族が多く住み、トルコの支配下に置かれていたが、トルコ衰退に伴い、独立していく。ただ、トルコに支配された期間の長短や地域によって、イスラム教への改宗し、あるいは同化に抵抗できなかった種族もあれば、イスラムへの改宗を拒み反目する種族と入り乱れていた。それが宗教も言語も風習までも様々な違いを生んでいた。互いに近い血族でありながら、なおかつ近隣に住む者だからこそ、接触しやすく、余計に嫌悪感を抱き、不満を同じ民族同士でぶつけあってもいたのだ。それぞれが時に反目しながら、共通の敵には協力して立ち向かうなどバルカン地域ならではの複雑な事情を抱えていた。
そして20世紀になるとそこに列強国が利権を求めて近づいてくる。
新しくドイツ皇帝になったフリードリッヒ2世はそれまでのビスマルク体制を飽き足らないと見ていた。この政策によりドイツは自ら海外植民地競争に足かせを嵌めることになり、他国の植民地政策に指をくわえて見ているだけだと思ったのだ。そこでトルコに接近し中東への進出を目指そうと考えた。ドイツのベルリンからトルコのビザンチン(現イスタンブール)を通り、イラクのバクダッドまで鉄道を通す計画を立てた。いわゆる3B政策だ。それにはバルカン半島に自前の鉄道を敷くのが必要となり、セルビアを意のままにしたかった。当然これは他国からドイツがビスマルク体制を放棄するものと考えられ、バルカン半島も大きく揺れることになる。
オーストラリアは隣接するバルカン半島への野望を隠し立てはしなかった。南下してボスニア=ヘルツェゴビナを併合し、モンテネグロを支配し、更にイタリアの国境近くを伺い、セルビアにも興味をしめしていた。それは国内のハンガリー人には不興を買うことになるのだが、トルコに代わりバルカン半島を支配する野望は持っていた。
ここにドイツとオーストリアの利害は一致し同盟関係になる。
ロシアは直接バルカン半島には野望は持ってなかったが、半島に住む同族のスラブ人がオーストリアやドイツの支配下になるのは我慢できなかった。さらにドイツとは中東への南下政策でぶつかり合うことになる。トルコの勢力が弱まるのを見て、黒海とカスピ海を渡れば、肥沃なイラクやイランなどが手に入ると考えた。それにはドイツの3B政策が大いに目障りでもあり、バルカン半島にドイツの手が伸びるのを邪魔していた。
フランスもバルカン半島に領土的野望はなかったが、兵器の売り込み先を求めており、バルカンの紛争はまたとない商機でもあった。バルカン諸国は工業力もなく、自前で兵器を製造できない上、互いに紛争に備え武器調達に走っていた。フランスの武器商人がこんな機会を逃すはずもなかったのだ。
そしてイギリスもバルカンへの領土の関心はなかったが、ドイツの3B政策に対抗して3C計画を打ち立てた。エジプトのカイロ、南アフリカのケープタウン、インドのカルカッタを結んで三角形を作る3C政策で、ドイツに対抗しようとしたのだ。イギリスの巧みなことは直接ドイツとぶつかり合うのは避け、先ずロシアをドイツにぶつけようとし、更にアフリカの植民地をフランスと分け合うようにした。
イギリス、フランス、ロシアは協商関係を結び、ドイツと対抗していく。
そのような国際政治のなかで、バルカン半島は利権と思惑が絡み合いしていた。
6年前、オーストリアはボスニア=ヘルツェゴビナを併合していた。それから、直近の2年前にはバルカン戦争が2回も起きていたのだ。その微妙な時期、不安定な状態でオーストリア皇太子がモンテネグロを視察した。セルビア人にとって独立を脅かす脅威に映って、過激派がサラエボに潜入して、暗殺事件を引き起こしてしまったのだ。
要人の暗殺の裏側にはいつも利権が渦巻いているものだ。それがサラエボでの事件では背景があまりに大きくどす黒かった。
こうしてヨーロッパの平和はバルカン半島が導火線になってあっけなく終わってしまうことになった。




