37話 新婚生活
良子と結婚して気づいたのは家庭の持つ暖かさだった。
「ちゅん。ちゅん。」眼を覚ますと庭で雀が囀っている。
良子は朝食の用意をしているのだろう、隣の布団は空だ。
寝坊した。昨日は少し調べ物をしていて、帰りが遅くなった。仲間たちと少し酒を飲んだのも影響したのかもしれない。
「うーん」思わず大きな、伸びをした。
物心ついてから、これほどゆったりとした気分で朝を迎えられたことはなかった。
実家では父親が最大の権威者として振舞い、子供たちは小さくなっていた。
あの不条理と感じた日まで、父親には怖い思いしかなく、家では緊張していた。
剣術の老人から、厳しく教えてもらうようにもなり、自然に、自分を律するのが常となっていた。
朝起きると自分の身の回りを片付け整理していく。汚れ散らかってなくても掃除をするのが常だった。
「俺は外人には負けないようになるんだ」そう思って、吉岡に師事すると、見習うべきことはいくらでもあった。
「吉岡先生の部屋はいつもきちんとされている。吉岡先生がだらしない格好をしたことはない」姿勢正しくすることから学び始めたと言えよう。
桑原の家に入ると世話になっていると言う気持ちが子供心にも強かった。朝は誰よりも早く起きて庭掃除をするようにした。
「本当に正平は気が利くわ」桑原の奥様はいつも褒めてくれた。それは正平が人の見てない所でも真面目に掃除をしていたからだ。
陸幼でも陸士でもその生活態度は変わらなかった。
制服の洗濯から身の回りの片づけまで正平は一度として誰からも注意されたことの無い生徒であった。
「お前は全く、隙が無いよな。そんなに几帳面にしてつかれないか?」同級生に訊かれても笑って答えるしかない。
正平にとり、身の回りを整理し、姿勢を正しくするのが日常となっていた。
規則正しく寝起きするのが、当然のことだった。
アメリカに留学しても変わらなかったし、結婚し、家庭を持っても変わることはないだろうと思っていた。
それがまさか寝坊するとは思わなかった。寝坊するなんて物心ついてからほとんど記憶にないくらいだった。
「あら、起きていらしたんですか?」寝室に様子を見に来た妻が入って来た。
正平はすでに衣服を着替えている。
「寝過ごしてしまったよ」テレ笑いを浮かべてそう返す。
朝に見る妻の顔は輝いているようで若々しく美しい、そして新鮮に感じた。
そんな夫の視線を感じ取ったのか良子も顔を赤らめた。
「すいません。私の分まで畳んでいただいて」良子は二つ並べてあった布団がどちらも綺麗に片づけられているのを見て言う。
「どうせやることは一緒だからな。」正平も当たり前の口ぶりだ。
ありきたりの会話が嬉しい。
新婚の家庭は正平に安らぎを与えてくれた。
たまに同僚たちが遊びに来て、飲んで談笑することはあっても正平の生活はあまり変わることなく平穏に過ぎていた。
やがて、男子が2人続けて生まれた。
長男は平壽、次男は正司と名付けた。
男子だったので自らの名前と、「かず」は長男、「じ」は次男だからだ。
二人とも元気に育ってくれ、2つ違いで兄弟げんかも良くやっている。
(俺も良助とは小さい時に喧嘩したな)子供も同じように育っていくと思った。
ただ子供のことはほとんど良子に任していた。
「読み書き出来ればそれでいい。学校の成績は小さい頃は気にしなくていい。
真面目で、正直で、元気に育ってくれればそれでいい」
妻にはゆったりとして気持ちで子供たちに接してくれることを願い、妻も口やかましい性格ではなかった。
家のことは良子と執事夫婦に全部任せて、ほとんど心配なことは起きなかった。
多分、問題ごとはあったのだろうが、三人で相談して処理しているのだろう。
良子も長男の出産時は初めてのことばかりで、戸惑いもあったようだ。
それでも執事夫婦がうまく補助してくれて、長男が無事に生まれてくれた。
「よく子供の時に夜泣きをすると聞いたが、我が家では苦労しないな」
「ええ、太助たちがいますから」良子も執事たちを頼りにして、困った様子を見せたことはない。
次男の時は妻も慣れたのか、あまり苦労することなく出産していた。
正平は我が子を膝の上であやすなどしていたが、他に子育てに手を貸したことはない。
それでも子供たちが順調に育っている。
自分の血を分けた子供たちがいること。その実感だけで充分だと感じていた。
学校を卒業して、連隊に戻り兵士の訓練や会議などで明け暮れていた。
いままで、軍隊生活だけの毎日だった。
それが良子と結婚して正平の生活は充実なものになっていた。
良子と何気ない会話をすることで職場で張り詰めていた気分が和らぐのを感じる。
家庭という空間がどんなに素晴らしいものか良子との結婚で知ることになった。
この時期は正平にとって、あまり人生に変化にとんだ生活ではない。
次の戦いになるまでの期間は正平にとって最も平穏な時代だったと言えよう。
時代はやがて激動明け暮れるものとなる。




