36話 水野雄二
結婚してから正平が卒業した士官学校に招かれたことがある。
「こちらが、我が校を優秀な成績で卒業された塚田大尉です。お前たちの先輩にあたる礼儀正しく挨拶をしろ」
教官は顔馴染みで、学生たちに少し大げさに紹介してくれた。
校長は既に代が代わっていたが、大半の教師とは面識がある。
そんなこともあって、士官学校ではくつろいだ雰囲気にさせてもらえた。
「アメリカの授業体制はどうなっている?」教官たちが最も気になっているのはやはり外国の事情だった。
卒業生で成績の良かった正平がアメリカから帰ってきたことを知ると、呼びつけたくなるのは当然だった。
正平もそのあたりのことはよく分かっていて、あらかじめ説明するための資料を持参しておいた。
「お前のおかげでアメリカの事情はよく分かった。これからお前の来校を祝って、飲み会をするから付き合え。それまで時間があるから母校を見て回ってくれ」
顔馴染みの恩師にそう言われると断れるものではない。
正平は飲み会参加のため、久々に母校の雰囲気を見て回ることにした。
剣術道場に入った時だった。
「お前たちに紹介する。ここの卒業生でお前たちの先輩にあたる塚田大尉だ」若い師範代がそのように道場にいた学生に紹介する。
「この人は学生時代誰にも負けなかったほどの腕前だ。お前たちの稽古ぶりをよく見て貰え」
すると一人の学生が挙手をした。
「塚田先輩にお願いがあります。是非一手、御指南をお願いします」
「な。何!」若い師範代は急なことで慌てている。
正平が旅順で片目を失い、外遊でほとんど竹刀を握ってないことは分かっている。そんな状況で、立ち会えるものか疑わしい。
何よりも事前に何の願いもされてなかった。正平にも相談してない。客人としての正平への配慮もあったのだろう。
「どうされますか?」顔色を伺ってくる。
「いいでしょう」正平はこともなげに言った。
飲み会までにはまだしばらくある。久しぶりに竹刀を握り、本気の稽古が出来るのは好都合でもあった。
胴着、面などを借り、竹刀を握るとすぐに昔の感覚が蘇ってくる。竹刀を2,3度振ると一気に学生時代に戻ったようだ。
学生たちは3人が代表で立ち会うことになった。皆、ここでは猛者なのだろう。
1本勝負で試合が始まった。
「お願いします!!」
最初の一人と一礼し合い、向き合った。
正平は立ち会ってすぐ、目の前の学生に気負いがでて、それが肩に力が入り過ぎていると見抜いた。
肩に力が入り過ぎれば動きが鈍る。正平はほとんど無意識のうちに相手に飛び込んだ。
「めーん」相手の顔面を見事に捉え、師範代の手が上がる。
「早い!何が起きた?」余りの早業に見守っている学生は驚きの表情を浮かべている。
次の学生は最初から及び腰になってしまった。正平の早業を見て、明らかに腕前が違うと感じ、腰が引けている。
正平にはそんな相手の心情を見通しだ。
相手が逃げ腰なら、飛び込むふりをすれば、竹刀で防ごうとする。胴ががら空きになるのだ。
正平は跳びこみ、そのまま相手の脇をすり抜け、胴を払った。何分の1秒かかってない。
「胴!」師範代は正平に上げた。
2番目の学生も正平と竹刀を合わすことさえ出来ないまま、あっと言う間に勝負がついた。
最後の学生は正平に立ち合いを申し出た学生だ。自ら言い出したことだけあって、学生の中では一番と自負している。
(学生の時、負け知らずと言われても、片目になって永らく竹刀も握ってない奴に負けるわけがない)そんな気持ちで勝負を申し込んだのだ。
ただまさか、仲間たちがこうも簡単に負けてしまうとは思わなかった。二人とも竹刀を交わす間もないまま負けている。
ここまで技量の差があるとは思いもしなかった。
(これ、とんでもない人ではないか。学校の師範より強いかもしれない。このままでは俺もやられる。それなら相手の弱点を徹底的についてやれ)
彼は一礼するとすぐに正平の左側、見えない眼の方に回り込む様に動いた。
(相手は片目だ。当然正確な間合い距離を掴めないはずだ)それが狙いだった。
だが、正平にとりそのような動きは無駄なことで、動作を鈍らせるものでしかなかった。
左に回り込むことで足捌きが微妙に崩れたことを見逃さない。
結果はやはり同じだった。「面!」鮮やかに決まった。
その学生は水野雄二と言う。成績は学内一で、剣術の腕もぴか一だ。うぬぼれも相当あり、誰よりも頭のいいと考えもいる。
在校時に剣術では並ぶものはいないと紹介された塚田に対し、反感を持った。
もう6年前に卒業した先輩で、その間稽古もしてこなかっただろう。しかも、片目では距離感がつかめないはずだ。
そんな相手に対して雄二は自信満々だ。それが試合前までの心境だった。
その自信はすぐに消え去る。仲間が相次いでやられ、自分まで簡単に負かされた。
「負けました!」練習試合とは言え、こんなにもあっけなく負かされようとは水野にとって存外だった。
「参りました。お強いです」石倉は面を外し、頭を下げた。
天才と言われ学内で怖いものなしであったが、実力の上の人物には素直に認める。
彼は実直な面も持っている。
「もう何年も碌に稽古をしてなかったから、ひやひやだったよ」塚田は笑いながら返したてくれた。
(この人には敵わない)本気でそう思った。
「どうしたら、そんなに強くなれるのですか」水野は自分でもつまらないと思うことをつい質問した。
当然の質問だが、答えるのは難しい。強くなろうと誰でも思っている。強くなる方法を誰もが模索し、それでも見つけ出せないのだ。
「強いから、勝つのです」意地が悪いと、まともに質問には答えない者もいる。
正平は静かに答えた。
「ある程度、上達すると、相手の心情や手の内が分かるものです。あなたと対峙したとき、息継ぎが伝わってきました。息をし始める瞬間、人は誰でも動作が遅れます。そこを見逃さないようにすれば、有利に試合を運べます。相手がどのような心境になっているか自然にわかるようになると体が勝手に動いてくれます」
「ありがとうございました」水野は深々と頭を下げた。
「上達すれば、相手の息継ぎが分かるようになるか。俺にはとてもそこまで上達できそうにないな。」
達人になると相手の呼吸、心境まで見通せることを塚田は示してくれた。そして水野にはそこまでの領域になれないと思ったのだ。
「努力だけで掴み切れるものではない。塚田さんは本物の剣の達人だ」
水野は勉強もほとんどしなくても良い成績でいられる天才肌だ。その分剣術に打ち込んでいたので、達人という領域が何となく分かった。
「あれは努力だけで、成れる領域ではない」
しかも、学業でも伝説に残る程の優秀さだ。
水野は一生懸命努力して成績を上げる者達を軽んじている所がある。
「授業受けていればそれだけで十分覚えられる。授業以外まで本を持ちだす必要はない」それが持論だ。
(そして塚田さんも学校ではロシアのことばかり気にしていたと言うから、同じだったのだろう。)
その後、仲間達にこう漏らしている。
「俺は塚田さんには逆らわない。あの人に頭をど突かれても怒らないぞ」
「お前がそんなことを言うなんて思っても見なかったよ。」
仲間達は天狗の水野が鼻をへし折られたのとのほうが、正平の強さより驚きだった。




