35話 陸軍大学
陸軍大学は陸軍の幹部候補として、将来の日本陸軍を背負って立つ人物を養成するために作られた。
その入学条件は所属する連隊長の推薦が必要だったし、入試倍率は20倍を超えてもいた。
正平はアメリカでほぼ陸軍大学と同程度以上の教育を受けていたので、陸大に入ることに拘っていなかった。
彼の頭には陸軍の近代化・機械化をどのようにするかしか考えにない。
「わざわざ日本で陸大に入り直すこともなかろう。」そんな考えを持っていた。
連隊長の小林から陸大を受けろと言われたので、命令に従ったにすぎない。
受かっても受からなくても大して変わりはないとそんなつもりで受験した。
軽い気持ちで受験したが、一発で合格した。
「やはり、塚田だけのことはあるな」小林はことのほか喜んでくれる。
手を回して入試結果で塚田が最高成績と知り、自慢顔にさえなっている。
だが正平は余りあっさりと入学できたので、上司の喜びようをあまり理解できない。
このころになると陸軍では陸大出身者でないと将官にはなれない、そんな決まりが広まっていた。
小林が命令に近い形で陸大受験を言い渡したのも、連隊に陸生がいないのでは格好がつかないからだ。
陸大生が所属することは未来の将校を抱えているようなもので、連隊の名誉にもなっていた。
(上司が喜んでくれたのだからそれでいい。)それが正平の気持ちだった。
大学では半分生徒、半分教師の待遇となっていた。
これまで、欧米の陸軍大学で学んできた者が、陸大に入ってきた者はいない。
2年近く、アメリか陸軍大学で学び、海外の軍略、軍事訓練、武器開発の状況までも知っている。
改めて陸軍大学で基礎的なことから学ばせても意味がないと学校側が判断した。
逆に講師陣は正平から新しい知識を学びたいと考えていた。
とりわけアメリカの工業力については誰よりも詳しく知っている。
日本陸軍の戦略などの授業を中心に受けたが、逆に教師からアメリカの実情を知りたい要望も強かった。
「塚田は半分生徒、半分教師でいいだろう」それが学校側の扱いだった。
「それなら受けたい授業だけ受ける」真面目に授業に出なくても正平は許された。
「あいつは別格だ。逆に先生が教えてもらうことの方が多いのではないのか」それが同級生の受け止め方だった。
正平を囲んで討論会が良く開かれるようになった。
「これからの戦闘は鉄兜が有用ではないか」正平は旅順での体験からこのように提案した。
「鉄兜よりも砲弾の生産が必要でしょう」この投げかけに一人の学生が反問した。
日露戦争で奉天の会戦で勝利したにもかかわらず、それ以上進軍できなかった。
陸大所属なら、当時砲弾が不足して日本軍は戦いを続行する能力がなかったのは周知のことだ。
彼はそのことに触れ、砲弾の供給こそ日本軍にとって必要と強調した。
「いや砲弾は製造すれば、すぐできる。しかし兵士になるには十何年の必要だ。
日露戦争の時、鉄兜があれば、死なずに済んだ者や重傷者でも軽いけがで済んだはずだ。」
アメリカでもそうだったが、正平の講義は討論形式が多かった。
具体的なテーマに絞りその有効性や実用性を様々な角度から検討させた。
そこでも日米の違いが出る。
その一つ、アメリカの学生は自己主張が強く、進んで前に建つ傾向があった。
日本の学生は他人の意見をよく聞くが自分の意見を言わない傾向があった。
だから正平は必ず一人一人意見を言うことを原則とした。
「意見を出し合うことで、問題点が見えてくる。意見を出せない者はそれだけ無能だ」
いつも無口と言われた正平もこと討論会では議論の活発化させることを優先した。
アメリカの軍事情報を報告することも学校側から求められた。既に、連隊上司にも報告していたので、それ自体は大した作業でない。
「アメリカの教育は、日本より戦略を重視している。
戦争に勝つためには、軍備増強を図るだけでなく、兵員物資の輸送体制、港湾輸送拠点の確保などをあらかじめ想定している。
そして調略謀略を重視している。敵国を弱らせるために、戦争前から仕掛けることを考えている。」
軍事拠点の確保は当然日本でも考えられていた。だが正平の言いたかったことは、軍事物資の供給をどのように続けていくかだ。
「鉄鋼を生産出来ても鉄鉱石や石炭の供給が途絶えると生産できなくなる。原料の備蓄は勿論海外からの輸入を安定させるかが重要だ。
そして、鉄鋼を兵器に加工できる熟練者、そして兵器開発者までを含めて考えないといけない。
さらに敵国の軍需物資の供給網遮断や騒乱を誘発させることも考えなくてはならない」
更に技術的なことも書き添えていた。
それが文書で配備されると、技術開発に関心を寄せる教師に刺激を与えることになった。
正平が自動車工場で見学した流れ作業と分担の仕方を詳しく記述していたのが注目を集めたのだ。
「このように分担して流れ作業として行えば、大量生産することが出来る」その車の生産量に教師陣は度肝を抜かれた。
「流れ作業の肝は、作業者が一定の時間で製品を作れることです。ある作業者が早く製品を作れても別の者が同じように作れなければ流れは止まる。ある程度の熟練度を共有することだ」
「組み立て作業の場合、部品の精度にばらつきがあってはならない。ナットとボルトのねじの規格が全て統一していること。それが肝心だ」
正平が持ち込んだ考えは工業規格そのものである。
当時としても決して画期的なアイデアではない。だが、自動車生産の様に流れ作業体制と組み合わさる時、この工業規格が絶対必要なことが理解できた。
それが工業を発展させるのにどれだけ役に立つかを気づかせてくれたと言える。
「ねじの規格一つとっても非常に精緻です。ねじの口径、ねじ山とねじ山の間隔、ねじ山と底の高さ、ねじ山の傾きなど全てを規格化統一しないとならない」
技術陣も頭では分かっていても、それを具体的に、実用されていることを提示された格好だった。
また、ライト兄弟の飛行機についても構造図などの資料も提出した。
「こんなので、空を飛んだのか?」「本当に自転車に羽を着けただけじゃないか」
意外なほど簡単で、エンジンも小型軽量だった。
「兄弟は飛ばす前に何度も模型を作って実験を繰り返している。そのやり方は参考になるぞ」
正平は兄弟が初めて空を飛んだことよりも、実験を積み重ねて初飛行に挑んだことを強調した。
「兄弟は模型飛行機で何度も飛ばしている。
どんなものでも初めて試みるものは綿密な実験と試作が必要だ。」
ただの思い付きから実行することの弊害を説いた。
そんな同僚などと討論している間に友情が芽生えてくるものだ。中には飲み明かすのが友情の証と勘違いしている奴もいた。
特に正平の家が学校から歩いて通える所で、なおかつ新婚でもあった。
新婚の家は朋輩からからかわれるし、やっかみの対象でもある。
正平の家に休日には、友達に押しかけられた。
ある時など、土曜日の夜から夜中まで飲み明かした。そして正平と言えば、技術論を明け方まで繰り広げるのがもっぱらだった。
正平が酒にめっぽう強く、何よりも技術馬鹿であったことが大きい。
「旦那様。良子お嬢様を放って置いてどうされるのですか」たまらす執事から注意されてしまう。
それ以外友人たちも流石に深夜まで押しかけ、飲み明かすことはなくなった。




