34話 結婚
結婚式は山県が仲人をしてくれ、桑原が仮親になってくれることになった。
山県や桑原にとっては可愛い部下や息子の結婚式を盛大に祝いたい気持ちを持っている。
士官学校をトップで卒業し、旅順でも活躍して、アメリカに留学もした。将来の日本を背負って立つ者と期待している。
ここで多くの政治家などを呼び、正平を引き立てようと考えたのだ。
しかし正平は「田舎の親や兄弟を呼びません。」と言いきった。
「いずれ妻を連れて伊豆に旅をするつもりです。その時両親や兄弟と顔合わせできます。わざわざ伊豆から呼ぶことはありません」
実の両親さえも結婚式に招かないと言うのだから、お客を大勢呼ぶなんて全く考えてない。
「そうは言うが・・」と桑原としては、息子同然と思っている正平の結婚を華々しくしたかった。
「盛大な結婚式をすれば箔が出ようと言うのに」そんな言葉が出そうになる。
ただ正平が桑原に仮親になってくれと言われており、それ以上注文を付けるのも差し控えた。
「親まで呼ばないと言うなら、お前の考え通りにしろ」最後はそう言って引き下がってくれた。
正平としては結婚式を華々しくするなんて無駄としか見えない。
大勢客を呼べば、特別に会場を用意しなければならないし、食事飲食の手配をしなければならなくなる。料理人や給仕係もいるだろう。
費用はともかくその準備に時間をとられるのが無駄としか思えなかった。
「ただでさえ、帰国の後、所属上司への報告、連隊の実務状況の確認などに追われている。
仕事に必要ともしない結婚式の準備に時間をとられるなど無意味だ」合理的な考えの正平はそう考えていた。
この当時、ホテルなどを使って結婚式をすることはほとんどなかった。
自宅でするか、あるいは結婚式そのものをしなかった。
正平も桑原が見つけてくれた新居で結婚式を挙げることにした。
そして招いた客は山県夫妻と桑原夫妻、そして新妻の緒や夫婦だけだった。
ともかくも、首相経験者で陸軍省の重鎮の山県が仲人をしてくれ、総務省要職の桑原が親となり、花嫁側が伯爵家と言う顔ぶれになっており、豪勢なものに違いなかった。
新居は昔、商人が妾宅として拵えた物で、広いとは言えないが池や築山などの庭もあり、門からは見越しの松が見えるなど江戸情緒が残る屋敷だった。
正平は新居について何の感想も述べていない。
「このような立派な家を見つけてくれてありがとうございます」桑原と家扶にお礼を言っただけだった。
正平は全く身一つで新居に移って来たが、良子は侍従夫婦を連れてきた。
夫婦は良子の幼いころからの面倒を任されており、正平としてもそのまま良子と一緒に来てもらうことに何の反対もしなかった。
男は40を超し、落ち着いた性格で、人生経験も深く執事として迎え入れた。
女は35で、武士の娘として育ち、教養もあって、良子の礼儀作法は彼女のしつけによるものだった。
「私の給料はこれだけだ。5分の1は私が貰うから残りは3人で考えて使って欲しい」
目の前に出された数字は3人の予想を超えていた。
正平は旅順での功績とアメリカ留学を評価され大尉に昇進し、給料も多くなっていた。
その上、故郷の弟妹たちも独立、あるいは結婚してもう仕送りをする必要はなくなっている。彼自身が必要な金は付き合い程度の酒席しかなく、後は貯金に回すだけだ。
「こんな大金をお預かりしてもよろしいのですか?」執事が驚きの声で聞いた。
「屋敷には修繕もあるだろうし、この家の中の食事代や薪代、それにお前たちの子供の学費まで含んでいる。そんなに多くはないだろう」
夫婦には3人の子供がいる。年上の者はもう少しで中学に上がる年齢だ。
「そう言うことなら大切に使わせていただきます」太助と言う男は深々頭を下げた。
正平はこの子供たちには中学までは出してやりたいと思っていた。
「召使の子供を中学に行かせていただけるなんて、考えてもいませんでした」
夫婦にとっては思いがけないことだった。
「私は家の中のことは頓着しない。どんなまずい飯でも構わない。
ただ、掃除と洗濯はきちんとしてくれ。家のどこでも後片付けだけはしっかりやってくれ」
「分かりました。旦那様の言いつけはしっかり守ります」執事夫婦は口を揃え答えた。
寝室で初めて良子に眼帯を外し始めて素顔を見せた。
「怖がらないでくれるか?」そっと聞いてみた。
その左目は醜く潰れ、目の周囲は傷の跡がくっきりと見える。
「あなたはお国のために目を捧げたのですね。傷跡を何で私が怖がるのですか。私には勲章のように思えます」
良子は驚きの声も上げず、静かにそして夫を誇りに思うとまで言ってくれた。
日本は明治維新から近代化が始まり、西洋文明が持ちこまれてきた。
西洋の物資が入り、人の生活様式を大きく変えた。
それよりももっと大きく変化したのは人々の国民意識だった。
明治維新、そして日露戦争を経て、日本人に国民意識が行き渡った。
「おらが村」という意識から「我が国」という意識変化だ。
良子が「お国のために片目を捧げた」の言葉は自然に出たものだ。
その言葉は正平には何より嬉しい表現だった。
正平は新妻を思わず抱きしめていた。




