26話 嵯峨良子
正平は旅順での功績で中尉に昇進した。そして片目を失い、また留学もほぼ既定のこととなっていたので、配属先から軍務を外されることになっていた。
その期間を利用して、死亡しあるいは怪我をした部下たちを訪問しに全国を廻ることにした。
「中尉さんもケガをされたのにわざわざ来ていただいてありがとうございます」
亡くなった一人の部下の家では、母親から何度も頭を下げられてしまった。
そこの仏壇は位牌と線香を立てる器しかない。縁の欠けた茶碗が妙に寂しかった。
正平の生まれた家も裕福ではなかったが、部下たちの実家は正平の目にも貧しく思える。
(亡くなった部下は大事な働き手であっただろう。それを俺は見逃してしまう所だった。
桑原さんや吉岡先生からも狭い視野で世間を見るなと言われている。部下たちの育った境遇にも配慮しないといけない。
日本はこれだけ多くの国民が国のために頑張って勝利したんだ)
農家を去る時、正平の胸に篤い思いがこみ上げてきた。
その他にも片足を失くした部下の言葉が胸に残った。
「片足だけで済んだのは幸せです。命を落とした奴に比べれば私は幸運でした。私は商人の息子ですから、算盤が弾ければ生きていけます」そう言って明るく笑った。
松葉杖を突いて歩く姿はハンデがないとは思えない。それでも彼の顔には暗さがなかった。
(この前向きな姿勢を俺も見習わなくてはならない)
片目になったことに少しもハンデとは感じてなかったが、前向きになっていたかと言えば疑問があった。
(俺ももっと片目になったことで利用する考えを持たないといけない)
部下の慰問を終えると、桑原から呼び出しがかかった。
「お前に縁談話がきた。山県さんの口利きもあるから是非会って見ろ」
正平は、この時まで結婚のことなど考えたことがなかった。
まだ24でもあり、身を固めるのは留学を終えてからだと思っていた。
ただ、山県からの話だとすればもはや断りのできない状況だとも言えた。
何も逆らう言葉も言わず、素直に見合いの席に着くだけだった。
見合いは山県の屋敷で行われた。軍服の身なりのまま訪れると相手の女性も両親に伴われてやってきた。
「伯爵。この若者が塚田正平です」
ここで初めて正平は先方に紹介された。
嵯峨伯爵と言って、代々続く公家の家柄だと言う。相手の女性は良子と言って、まだ18になったばかりだった。
山県は茶室に席を用意していた。
この時まで、正平は茶道に接したことなどない。それに比べ相手の女性も両親も和服で、茶室にマッチしている。
(これは多分、俺が茶に不調法なのを知っての閣下のからかいだろう)
厄介な場所に連れて来て正平が戸惑っているのを面白く見てやろうと、いたずらを考えたようだ。
正平は作法に気を配るよりも、礼儀だけは失礼のなきよう心掛けるだけと考えた。
先方の親は身分が高い。当然上席の父親からお茶が出される。
初心者である正平にも、相手の作法が美しく流れるようで、行儀に合ったものだと分かる。
席亭の山県から端然と茶をすすめられる姿は美しいと思った。
「茶はこのように嗜むものか」と思いつつ敢えて真似しようとは考えなかった。
正平が茶をすする番になったが、当然どのような動作してよいかも分からない。
ただ、目の前に出された茶わんを普段通りすすり、前の客がしたように、最後に懐紙で拭いて返した。
堅苦しい茶席の後、茶化すように山県言った。
「見ての通り茶の心得はありませんが、気骨のある奴です」
「閣下。軍人は茶の作法を知らなくても戦は出来ます」
あまりに山県の術中に嵌められたようで、少しお返しの言葉を言った。
「ふふふ」その一言に良子が微笑んだ。
「箸が転がっても笑い出す」年頃だ。正平が意外と山県に文句を言うのが可笑しかったようだ。
「良子さん」慌てて母親が窘めようとするが、「あはは、山県さん。一本取られましたな」伯爵も笑いだしている。
これで場がすっかり和んだ。
良子は京都育ちの人の持つ表面は穏やかでいて、芯の強い性格を持っている。
親の勧めで見合いの席に来たが、相手の男性が気に入らなければ破談してもよいとの言質をとっていた。
山県有朋は元勲と言われ日本では知らぬ者はないと言われている人だ。
もし見合い相手が山県にお追従ばかり言う腰抜けなら「うん」とは言わないつもりだった。
それが偉い人にもずけずけ言えるような人だった。
正平が黒い眼帯をして怖い顔つきをしていると正直思った。
ただ、元勲と呼ばれる人に対して堂々としている「男はん」と感じた。
「この人は偉い人におべっかを言うばかりの人ではない」
「すこしお嬢さんとお話をしたいのですがよろしいでしょうか?」ひとしきりよもやま話をしたのち、正平が切り出した。
正平は良子の素直な態度に好ましく思い、もっと彼女のことを知りたいと思った。
庭に出ると良子に聞いた。
「私は間もなく、アメリカに行くことになっています。2,3年は結婚が延びますが、構いませんか?」
「私の気持ちは変わりません。」はっきりとした返事だった。
深窓で育ったお嬢様とは思えない強い意思を持っている。
そして付け加えるように言った。「塚田さんは優しいのですね。」
黒い眼帯をつけ、見るからにいかつい軍人の塚田の問いかけが意外だったようだ。
「こんな顔ですからね。怖がられるのは当然ですよ」そう言って、お道化るように眼帯に手を置き隠し、手をどけて見せた。
その仕草に「ふ、ふ、ふ」と笑顔で返すと「いえ、塚田さんを怖いとは思いません」嬉しそうな言葉が印象的だった。
「嵯峨さんとの縁談に何の不満もありません」山県には婚約したいと述べた。
「先方も了承するだろう。桑原君の養子として縁組することになるが、それも承知だな」
「はい」
もう江戸時代とは違って、身分にやかましい時代ではなくなっている。
ただ、相手方が公家出身の貴族となると、いかに軍人将校でも平民の家では身分さが気になる。
そうなれば閣僚経験のある桑原に仮親になってもらうしかない。
桑原もそれを承知でこの話を進めてきたのだろう。
正平は何の疑念も出なかった。




